HISTORICAL PERSON · 427年没

陶淵明

中国魏晋南北朝時代の詩人。出仕しては短期で辞し、彭沢県令も80数日で辞めて帰郷した。郷里の田園に隠遁して農作業に従事しつつ日常に即した詩文を残し、「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。

生涯
427年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(江西省 / 廬山市)
出典
世界地図
中華人民共和国(江西省)

伝記

陶淵明は、中国の魏晋南北朝時代の詩人である。興寧3年(365年)に生まれ、元嘉4年(427年)11月に没した。諱は潜、字は淵明、元亮、深明などと諸説ある。死後に友人から贈られた諡にちなんで靖節先生、自伝的作品「五柳先生伝」にちなんで五柳先生とも呼ばれる。尋陽郡柴桑県、現在の江西省九江市柴桑区の人である。郷里の田園に隠遁し、自ら農作業に従事しつつ日常生活に即した詩文を多く残したため、後世には「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれた。

出自については、四言詩「子に命く」によれば祖先は帝堯にさかのぼるという。三国呉の陶丹の子で東晋の大司馬・長沙郡公となった陶侃が曾祖父にあたり、祖父の陶茂は武昌郡太守になったというが、詳しいことは不明である。母方の祖父には孟嘉がいる。ただし門閥が重んじられた当時にあっては、「寒門」と呼ばれる下級士族の出身であった。太元9年(384年)頃に結婚したが、太元19年(394年)頃に死別し、その後翟氏と再婚した。両妻との間に陶儼・陶俟・陶份・陶佚・陶佟の5人の子がいた。

仕官は太元18年(393年)に江州祭酒として出仕したのが最初で、短期間で辞め、続いて招かれた主簿は辞退した。隆安3年(399年)に江州刺史桓玄に仕えたが、隆安5年(401年)に母の孟氏の喪に服すため辞任した。元興3年(404年)には鎮軍将軍劉裕の参軍となった。これらの出仕は主に経済的な理由によるもので、いずれも下級役人の職務に耐えられず、短期間で辞めている。義熙元年(405年)秋8月に彭沢県令となったが、80数日後の11月には辞職して帰郷した。

以後は隠遁の生活を続け、二度と出仕しなかった。廬山の慧遠に師事した、あるいは匡山に隠棲したとされ、「尋陽の三隠」と称された。義熙4年(408年)には火事で屋敷を失い、しばらく門前につないだ船で寝泊まりした。義熙7年(411年)に住まいを南村に移したが、同じ年に隠遁の同志であった従弟の陶敬遠を亡くした。この間も東晋や、劉裕が建てた南朝宋の朝廷から招かれたが、いずれも応じなかった。元嘉4年(427年)に63歳で没し、追悼文は友人で当時を代表する文人の顔延之が書いた。酔えば無弦の琴を撫でて心の中で演奏を楽しんだという逸話が伝わり、これは中国文化における一種の極致を意味するものとされる。

作品は詩と散文を合わせて130余首が伝えられる。江南の田園風景を背景に、官吏の世俗生活に背を向けて晴耕雨読の暮らしを主題とした田園詩は、理想の隠逸生活の体現として高く評価された。それ以前の隠逸の詩が観念的な内容に終始したのに対し、陶淵明の作品は自らの日常の体験に根ざし、豊かな抒情性を失わない点が異なる。また、きらびやかな表現を追う貴族文学から距離を置き、飾り気のない表現を心がけた。この質直さは同時代には受け入れられなかったが、唐代になると評価され始め、宋代以降に高い評価が確立した。南朝梁の昭明太子は、その文を愛して手から放せないと述べ、その徳を思って同じ時代に生きなかったことを残念がった。散文では「帰去来の辞」と「桃花源記」が特に有名で、前者は彭沢令を辞めたときに書かれたとされる。後者は桃源郷の語源となった作品である。ほかに「五柳先生伝」や、昭明太子が「白璧の微瑕」と評した「閑情の賦」がある。日本でも訳注書や伝記研究が数多く、文学や文化史に大きな影響を与えた。

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