HISTORICAL PERSON · 2018年没

スティーヴン・ホーキング

イギリスの理論物理学者。ブラックホールの特異点定理を発表し、1974年にホーキング放射の理論を提唱して量子宇宙論の分野を形作った。一般向けの解説書でも知られる。

生涯
2018年没
死亡地
イギリス連邦(ケンブリッジシャー / ケンブリッジ)
出生地
イギリス連邦(オックスフォード)
出典
世界地図
イギリス連邦(ケンブリッジシャー)

伝記

スティーヴン・ホーキングは、1942年1月8日に生まれたイギリスの理論物理学者である。父フランクは熱帯医学を学んだ医学研究者、母イゾベルは哲学・政治・経済を学んだ人で、二人は大戦直前に同じ医学研究所で出会った。一家はロンドンのハイゲートに住んでいたが、ロンドンが爆撃を受けていたため、母は子を安全に産もうとオックスフォードに疎開して出産した。父がセント・オールバンズに職を得ると一家は転居し、スティーヴンは1952年からセント・オールバンズ校に通った。父はウェストミンスター・スクールへの進学を望んだが、奨学金の試験の日に病気になって受けられず、家計の事情もあって同校に残った。1958年には友人たちと、数学教師の助けも借りて、時計部品や電話交換機の中古部品で計算機を作った。学校では「アインシュタイン」と呼ばれたが、学業の成績はもとはさほど優れていなかったという。

数学教師に鼓舞されて数学を志したが、父は医学を勧め、父の出身校であるオックスフォード大学では当時数学を選べなかったため、物理学と化学を学ぶことにした。1959年10月、17歳で入学した。最初の1年半は教育内容が「ばからしいほど簡単」に思えて孤独だったが、のちにボート部に入り、舵手として漕ぎ手の拍子を整える役を務め、音楽やSFを好む仲間とも交わるようになった。3年間の勉強はおよそ千時間と本人は見積もっている。ケンブリッジ大学の大学院に進むには第一級の学位が条件だったが、最終試験は第一級と第二級の境にあり、口頭試問で「第一級をくだされば、ケンブリッジに行きます」という趣旨のことを述べた。結果は第一級で、1962年10月にケンブリッジで大学院の研究を始めた。

大学院の1年目は困難だった。望んだ指導教官でなかったことに失望し、一般相対性理論に要する数学の訓練も足りなかった。さらに運動ニューロン病と診断されて鬱状態に陥ったが、病の進行は医師の予想より遅く、指導教官の励ましで研究に戻った。1964年6月の講演でフレッド・ホイルらの研究に公に異議を唱え、才気ある生意気な人物との評判を得た。ロジャー・ペンローズの定理に触発され、同じ考えを宇宙全体に応用して1965年に特異点についての論文を書き、1966年に博士号を得た。同年、小論「特異点と時空の幾何学」でペンローズとともにアダムズ賞を受けた。1965年にジェーン・ワイルドと結婚し、のち三人の子をもうけた。

1974年には、ブラックホールが粒子を放出して勢力を弱め、やがて消滅するとするホーキング放射の理論を発表し、同年に王立協会フェローに選ばれた。1979年にはケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた。1983年にジェームズ・ハートルと無境界仮説を発表し、1988年の『ホーキング、宇宙を語る』は世界でベストセラーとなった。1991年には時間順序保護仮説を唱え、過去へ戻るタイムマシンは不可能という立場を取った。病は車椅子の生活をもたらし、晩年は視線で操る装置と合成音声で意思を伝えたが、発症から50年以上研究を続けた。2009年に大学の規定で退任し、大統領自由勲章を受けた。また、宇宙人との接触は人類に良い結果をもたらさないとして試みるべきでないと主張し、『ホーキング、宇宙と人間を語る』では宇宙の誕生に神は不要と述べ、宗教界から批判を受けた。

2018年3月14日、ケンブリッジの自宅で76歳で死去した。葬儀は3月31日に営まれ、6月15日にはロンドンのウェストミンスター寺院で追悼式が行われた。遺灰はアイザック・ニュートンら著名な科学者の墓の近くに埋葬された。

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