伝記
アーネスト・ラザフォードは、1871年8月30日、ニュージーランド南島北端のネルソン近くにあるブライトウォーターで生まれた物理学者・化学者である。父はスコットランドのパース出身の農夫、母はイングランドのエセックス出身で、12人兄弟の4番目であった。一家はフォックスヒル、ハブロックと移り、1882年にペロラス・サウンドに引っ越した。ここの中学校で、のちに妻となるメアリ・ニュートンと出会っている。1887年に奨学金の審査に合格して名門ネルソン・カレッジに進み、1889年にはクライストチャーチのカンタベリー・カレッジに入学した。在学中に電波検知器を作り、鉄の磁化に関する研究で1892年に学士、翌1893年には数学と数理物理学で修士の学位を得た。臨時教師に採用されたが、正教員の審査に3度落ちて教職を諦め、1894年に復学して地質学と物理学を学び、理学士の学位も取った。
同じ年に受けたイギリスの万博記念奨学金の審査は2位だったが、1位の人物が受け取りを辞退したため、繰り上げで合格した。このとき実家で芋を掘っていたラザフォードは、「これが生涯最後の芋掘りだ」と叫んだと言われる。1895年、ケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所の研究員となり、ジョセフ・ジョン・トムソンの指導で気体の電気伝導を研究した。1898年にはウランからα線とβ線の二種類の放射線が出ていることを発見し、カナダのモントリオールのマギル大学教授に就任した。1900年にはソディと共同で放射性元素の研究を始め、元素が互いに移り変わると考えるようになり、「半減期」の概念を作った。これは後に岩石の年代測定に使われた。同年6月28日にメアリと結婚し、モントリオールで新婚生活を始めた。1902年に、放射線を出すと元素が別の元素に変わるという放射性元素変換説を提唱し、1903年に王立協会会員となって、透過性が高く電荷を持たない放射線をγ線と名付けた。
1907年にマンチェスター・ヴィクトリア大学の教授となり、ガイガーと共同でα粒子の計数に成功した。これはのちにガイガー・ミュラー計数管として実用化された。1908年にはα線がヘリウムの原子核であることを発見し、放射性元素の変換系列が鉛で終わることを明らかにして、同年ノーベル化学賞を受けた。1911年、ガイガー、マースデンとα線の散乱実験を行って原子核を発見し、この結果からラザフォードの原子模型を発表した。1914年にナイトに叙され、1919年にはキャヴェンディッシュ実験物理学講座教授と研究所長に就任して、α線を窒素原子に当て、原子核の人工変換に成功した。翌1920年には中性子の存在を予言し、これは教え子チャドウィックが1932年に発見した。
ラザフォードは若い所員たちを「ボーイズ」と呼んだ。長身で風格があり、自分で財界から寄付を集めて研究所の予算を四倍まで伸ばした。ロシアから来たカピッツァがお気に入りで、1934年にソビエト政府が彼の渡航を禁じると、ラザフォードは抗議したが、首相ボールドウィンの助力も無駄であった。結局、ケンブリッジの高圧の実験装置をソビエトに送る奇策に出て、ソビエトは代償を払い、カピッツァのためにモスクワに研究所を建てたという。1926年に王立協会長となり、1931年にネルソンのラザフォード男爵に叙された。1937年10月19日、絞扼性ヘルニアのため66歳で死去し、ウェストミンスター寺院に葬られた。1997年、原子番号104の元素がラザホージウムと名付けられた。
同じ年に亡くなった人物
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