HISTORICAL PERSON · 1924年没

アルフレッド・マーシャル

イギリスの経済学者で、新古典派経済学を代表する。ケンブリッジ大学教授としてケインズやピグーを育て、主著『経済学原理』は長く英国で最も使われた教科書となった。

生涯
1924年没
死亡地
イギリス連邦(ケンブリッジシャー / ケンブリッジ)
出生地
イギリス連邦(ロンドン)
出典
世界地図
イギリス連邦(ケンブリッジシャー)

伝記

アルフレッド・マーシャルは、1842年7月26日にロンドンのベルモンジーで生まれ、1924年7月13日に没した、イギリスの経済学者である。新古典派経済学を代表する研究者で、ケンブリッジ大学の教授としてケインズやピグーを育て、ケンブリッジ学派を形成し、同大学の経済学科の独立にも尽力した。ロンドン郊外のクラパムで育ち、マーチャント・テイラーズ校で教育を受け、そこで数学の素質を現した。父は息子に聖職者となることを望んだが、本人は数学の研究を志し、ケンブリッジ大学に合格して学問の道を選んだ。ジョン・スチュアート・ミルの著作を読んで、社会正義を主張するミルに共鳴し、人間の内面的な幸福や豊かな生活を得るにはどうすればよいかと考えるようになった。ロンドンの貧民街を自分の目で見たことで、人々を貧困から救いたいという使命感から、経済学の研究へ転向した。

1868年に道徳科学担当の講師に任命され、のちにケンブリッジの女性向けカレッジであるニューナム・カレッジで経済学を教えた。その傍ら、経済学の数学的な厳密さの研究を進め、経済学をより科学的なものにしようと努めた。1877年にカレッジでの教え子メアリ・ペイリーと結婚したが、フェローの独身規定により退職せざるをえなくなり、ブリストルに新設されたユニヴァーシティ・カレッジの校長になって、そこで再び経済学を講義した。1870年代には、国際貿易と保護主義の問題に関するリーフレットをいくつか著し、1879年にそれらの多くをまとめて『外国貿易の純粋理論』を公刊した。同年、妻とともに『産業経済学』を公刊し、洗練された理論的基礎に立つこの本は、それまで支配的だったミルの『経済学原理』に代わる地位を得て、毎年のように増刷された。この著作で大きな名声を得て、1882年にジェヴォンズが死去すると、英国を代表する経済学者となった。

1884年12月にヘンリー・フォーセットの後任としてケンブリッジ大学の政治経済学教授に選ばれ、翌1885年1月にケンブリッジへ戻り、2月に就任講演を行った。経済学のための新しい学科の創設に努め、1903年にようやく実現した。それまで経済学は歴史と道徳科学の課程のもとで教えられており、専門化された学生が育ちにくかった。1881年から、畢生の著作『経済学原理』の執筆に取りかかり、それからの10年の多くを費やした。第一巻は1890年に出版され、世界的な喝采を受けて、その時代の主要な経済学者の一人としての地位を確立した。需要と供給の理論、すなわち限界効用と生産費用の理論を束ね合わせ、この本は長くイギリスで最も使われる教科書となった。スミスの『国富論』、リカードの『経済学および課税の原理』、マルクスの『資本論』、ケインズの『一般理論』とともに、経済学の五大古典とされる。第二巻は、細部に妥協しない完全主義的な性格が災いして、未完に終わった。

マーシャルは、生産者余剰と消費者余剰、需要の価格弾力性を明確に概念化し、価格のシフトと需給曲線のシフトの関係の解明に貢献した。1907年の論文「経済騎士道の社会的可能性」では、ビジネスにも公共的精神を含む騎士道があると説いた。健康問題は1880年代から悪化し、1908年に教授職を自ら退いて、後任にピグーが選ばれるよう奔走した。1919年に77歳で『産業貿易論』を出版し、死去する前年の1923年には『貨幣・信用及び商業』を出した。ケンブリッジの自宅で、81歳で死去した。

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