HISTORICAL PERSON · 紀元前381年没

呉起

中国戦国時代の軍人・政治家で、兵家の代表的人物。兵法書『呉子』の作者とされる。魯で斉軍を破り、魏で秦を討って西河郡守となり、楚では令尹として改革を行ったが、悼王の死後に反対派に殺された。

生涯
紀元前381年没
死亡地
西周(湖北省 / 楚)
出生地
衛
出典
世界地図
西周(湖北省)

伝記

呉起は、中国戦国時代の軍人、政治家、軍事思想家である。紀元前440年頃に生まれ、紀元前381年に没した。孫武、孫臏と並んで兵家の代表的人物とされ、兵法書『呉子』の作者とされる。兵法を「孫呉の術」とも呼ぶのは、この二人の名にちなむ。子に呉期がいる。衛の左氏(現在の山東省菏沢市定陶区)の人で、立身出世を志して曾子に学んだ。しかし母の葬儀に帰らなかったため、不孝として破門されたという。若い頃は仕官のために各地を転々としたが、仕官先が見つからないまま家の財産を使い果たし、それを馬鹿にした人を故郷で殺していた。葬儀に帰らなかったのはその後ろめたさのためともされ、呉起は素直に曾子のもとを去った。別の伝えでは、このとき母と、宰相の職を得ない限り衛には戻らないと誓い合ったともいわれる。

紀元前412年に斉が魯を攻めると、魯の君主は呉起を将軍に招き、呉起の率いる魯軍は斉軍を破った。ただ、呉起は斉の人を妻にしていたため任用を危ぶまれ、先に妻を殺してその疑いを晴らしたとされる。これがかえって人格への不信を生み、魯の大夫たちから讒言を受けて罷免された。紀元前411年、身の危険を感じた呉起は魏に亡命した。

魏の文侯は歴代の君主の中でも一二を争う名君とされ、人材を積極的に集めていた。文侯に呉起の任用を問われた李克は、貪欲で好色だが軍事にかけては名将司馬穰苴も敵わない、と答え、文侯は任用を決めた。呉起は軍中で兵士と同じものを食べ、同じ所に寝た。傷が膿んだ兵士の膿を口で吸い出してやったことがあり、これを知った兵士の母は、夫も同じように将軍に膿を吸ってもらって感激し、命を惜しまず突撃して戦死したと嘆いたという。この「吮疽の仁」の逸話のとおり、兵士たちは呉起に心服し、軍は圧倒的な強さを見せた。紀元前409年には秦を討って5つの城を奪い、西河郡の郡守となって秦と韓を牽制した。

紀元前396年に文侯が死んで武侯が立つと、呉起は宰相の座を田文と争って敗れた。抗議して軍略、政治力、威信のどちらが優れるかを問うと、田文は三つとも呉起が上だと認めたうえで、若い主君のもとで大役を任されるのはどちらかと問い返し、呉起は及ばないことを認めた。紀元前389年には50万ともいう秦軍を撃破し、紀元前387年には斉を破った。田文の死後、後任の宰相となった公叔痤は呉起を嫌い、武侯に讒言したうえ、公女を娶らせる策で呉起の名誉を重んじる気質を突いて縁談を断らせ、武侯の疑いを深めさせた。察した呉起は楚へ逃れ、西河は秦に取られるだろうと言い残した。のちに魏は西河を奪われた。

楚では悼王に令尹に抜擢され、法家的な改革を進めた。法の遵守を徹底し、不要な官職を廃して、浮いた国費で兵を養った。領主の権利を三代で王に返す法も定め、農民層を重んじた。楚は南の百越を平らげ、北は陳・蔡を併合し、西は秦を攻めるほどに強くなり、呉起は法家の元祖と見なされることもある。しかし権限を削られた貴族の恨みを買い、悼王の寵愛だけが支えであった。紀元前381年に悼王が老齢で亡くなると、反対派は宮中に踏み込んだ。呉起は悼王の遺体に覆いかぶさり、遺体もろとも射抜かれて死んだ。即位した粛王は、王の遺体に触れた者は死罪という法を用い、射た者たちを一族まで処刑した。呉起の死後、改革は不徹底に終わり、楚は元の門閥政治に戻った。半世紀後には、呉起と並び称される商鞅が秦で法治主義を確立した。

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