伝記
ヒュパティアは、東ローマ時代のエジプトのアレクサンドリアで活動したギリシャ系の数学者、天文学者、新プラトン主義の哲学者である。生年は350年から370年ごろとされ、355年説と370年説があるが、弟子のシュネシオスが375年ごろの生まれであることから、355年説のほうが妥当とみる見方がある。父は数学者・天文学者のアレクサンドリアのテオンで、母については何も分かっていない。学問の盛んな環境で育ち、父から数学と天文学を学んだ。父は知性だけでなく身体の鍛錬にも意を用い、ボート漕ぎや乗馬を習わせ、弁論術も学ばせたと伝えられる。哲学の師は確かでないが、同時代人のダマスキオスはイシドロスの名を挙げている。
ヒュパティアは新プラトン主義の創始者プロティノスと、シリアでの分派を興したイアンブリコスの学統を継いだとされ、400年ごろにはアレクサンドリアの新プラトン主義の学校の長となり、プラトンやアリストテレスの思想を講じた。門下にはキリスト教徒も異教徒もおり、のちに高位に就いた者が多い。キュレネの司教となったシュネシオスもその一人で、彼が送った書簡のうち7通が現存している。後世の『スーダ辞典』によれば、ディオファントスの『算術』、ペルガのアポロニウスの『円錐曲線論』、天文のカノンに註解を著したという。父の『アルマゲスト解説』第3巻の本文を校訂したとも伝えられる。これらは散逸したが、『算術』の註解はアラビア語訳の一部が断片的に残る。アストロラーベについてシュネシオスが彼女に意見を求めた手紙から、天文学と数学に専念していたことがうかがえる。平面アストロラーベや比重計を考案した人物ともされ、禁欲的な生活を送ったといわれる。一方、哲学に関する著作は全く知られていない。
当時のアレクサンドリアは宗教的緊張のさなかにあった。380年にテオドシウス1世が異端アリウス派と異教への迫害の方針を定め、391年には司教テオフィロスの求めで非キリスト教の神殿の破壊を許可し、暴徒がサラピス神殿などを壊した。412年にはキュリロスによる異教徒迫害や破壊活動が起こり、414年にはユダヤ人がキリスト教徒の集団に強制的に追放されて緊張は頂点に達した。ヒュパティアの教えは神秘主義を廃した学術的なもので、キリスト教徒からは異端視されたという。
415年3月、彼女は暴徒に殺害された。享年は生年により45歳か60歳ほどになる。ソクラテス・スコラスティコスは、キリスト教徒ペトロスに率いられた暴徒の仕業としている。ギボンは、四旬節のある日、馬車で学園へ向かう彼女が引きずり下ろされ、教会に連れ込まれて殺されたと記す。事件が司教の関与によるかについては現在も議論があり、ソクラテスは、この死が司教キュリロスとアレクサンドリアの教会に少なからぬ不名誉をもたらしたと述べている。彼女の史料は全部集めても15頁に満たないとされ、主要なものはソクラテスの『教会史』、ダマスキオスの『イシドロス伝』、シュネシオスの書簡集である。ダマスキオスによれば、訪れる人が絶えず彼女の家の前が混雑し、キュリロスの嫉妬を買うほどだったという。後世、彼女は科学の殉教者や女性の権利の象徴として語られ、多くの文学作品の題材となった。ただし、アレクサンドリア図書館は彼女の生きた時代には既に存在しなかった。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- アレクサンドロス1世 (アレクサンドリア主教) (326年没)
- ゲオルギオス・アベロフ (1899年没)
- オリュンピオドロス (哲学者) (570年没)
- マリク・イブン・アシュタル (658年没)
- ペルガのアポロニウス (紀元前190年代没)