伝記
ヨハン・クライフは、本名をヘンドリック・ヨハネス・クライフといい、1947年4月25日に生まれ、2016年3月24日に没したオランダ出身のサッカー選手であり、指導者である。リヌス・ミケルス監督が志向した組織戦術「トータルフットボール」をピッチ上で体現した選手で、所属したアヤックスで欧州チャンピオンズカップ3連覇を果たし、バロンドールを3度受賞した。フランツ・ベッケンバウアーと並ぶ1970年代を代表する選手であり、ペレやマラドーナと並ぶ史上最高の選手とも評された。引退後は指導者に転じ、アヤックスやバルセロナの監督を務めた。「空飛ぶオランダ人」「エル・サルバドール」などのあだ名を持った。
アムステルダム東部の労働者の街で、青果店を営む家庭の次男として生まれた。家は貧しかったが、2歳上の兄や近所の友人と、毎日のようにストリートサッカーに興じて技術を磨いた。生家から数百メートルの場所にアヤックスのスタジアムや施設があり、頻繁に出入りして、選手やスタッフに可愛がられた。華奢な体格で実際より幼く見られたが、10歳で兄の後を追ってアヤックスの下部組織に入った。当時のクラブには野球部門があり、キャッチャーとして15歳まではオランダ代表にも選ばれたが、サッカーのプロ化の機運でクラブが野球部門を廃止したため、サッカーに専念した。1959年7月、12歳のときに父が45歳で心臓発作により亡くなった。父の墓前で語りかけ、架空の対話を通じて父に見守られていると確信していたという。母はアヤックスの清掃員などで家計を支え、やがて同クラブの用務員の男性と再婚した。勉学には不熱心で、中学を2年で中退し、スポーツ用品店で働きながら下部組織でプレーした。
15歳でユースチームに昇格し、1シーズンの公式戦で74得点を挙げ、1963-64年にはユース年代の全国大会で優勝した。16歳の1964年にトップチームの昇格とプロ契約を打診され、小柄な体を心配する母を説得して契約を結んだ。同年11月15日のデビュー戦で初得点を挙げた。翌年に監督となったミケルスは、クライフを「ダイヤモンドの原石」と呼び、時間をかけて育てた。クライフは厳しいサーキットトレーニングにも熱心に取り組み、1965-66年にエールディヴィジ優勝に貢献し、19歳でミケルスのサッカーに欠かせない選手となった。リーグ優勝は6回、国内カップ優勝は4回で、1966-67年と1971-72年には得点王にもなった。1966-67年のチャンピオンズカップでは、濃霧の中でリヴァプールを5対1で破った。1969年の決勝ではミランに敗れたが、1970-71年にパナシナイコスを下して初優勝を果たし、1971年に初のバロンドールを受賞した。1971-72年と1972-73年も優勝して3連覇を達成し、1973年に2度目のバロンドールを手にした。
1973年夏、600万ギルダーでバルセロナに移籍した。この移籍金は世界記録で、クラブの会長と対立し、騒動にもなった。同年10月28日にグラナダ戦でリーグデビューした。引退後に指導者となったバルセロナでは、リーガ・エスパニョーラ4連覇とチャンピオンズカップ優勝を成し遂げた。2009年から2013年まではカタルーニャ選抜の監督を務めた。
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