伝記
ジャウマ・ファレー・バッサは、アラゴン=カタルーニャ連合王国で活動したゴシック期の画家であり、細密画家でもある。1285年ごろに生まれたとされ、国際的に認知されたカタルーニャ地方で最初の画家といわれる。バルセロナの中産階級の市民で、バルセロナ王宮やバルセロナ大聖堂の近くに工房を構えていた。その経歴はあまり知られておらず、若いころには放埓な暮らしぶりと結びつけて語られることもある。1315年にはアラゴン王ハイメ2世が、王妃キプロスのマリアの求めに応じて、3人の娘を襲った罪を赦したとされる。確実な最初の言及は1324年で、バルセロナの市民としてシッチェスの古い教会に付属する礼拝堂へフレスコ画を描くよう依頼されている。
1324年の依頼から次の記録の1333年までのあいだ、1325年2月の法廷への出頭を除いて、画家の活動を伝える文書がない。この8、9年の空白に、バッサはイタリアへ旅をしたのではないかと考えられている。トスカーナ地方やアッシジの修道院を訪れたとも推測されている。作品にはジョット・ディ・ボンドーネの影響がみられ、とりわけシモーネ・マルティーニやシエナ派、ピサ派との結びつきが強い。これらの流派はアヴィニョンの教皇庁でも大きな影響力をもっていたため、ジョットの影響はアヴィニョンを経由して間接的に受けたものとも考えられている。初期のフランス風ゴシックの影響からは離れ、フィレンツェ派やシエナ派の影響を受けた。
1333年、バッサはアラゴン王アルフォンソ4世から作品の制作を依頼された。1333年と1335年の王室の支払い記録からは、王に定期的に仕えていたことがうかがえる。アルフォンソ4世は1336年に世を去り、その息子のペドロ4世も画家に作品を委ねた。王の宮殿の礼拝堂のために数多くの祭壇画を描いたが、それらはいずれも現存しない。1340年ごろからは息子のアルナウが工房で協力するようになり、親子で共同の仕事もしている。1340年から1342年ごろには、マリア・デ・ナバーラの時祷書の彩飾を手がけた。
1343年、パドラルベス修道院に付属するサン・ミゲル礼拝堂の壁画の制作を委託され、1346年までこの礼拝堂で作業を続けた。壁画はキリストの受難、聖母の喜び、聖人たちの像など20の要素からなる。この壁画はバッサの確定された現存作品とされてきたが、イタリア風の強い様式をもつこの壁画の作者については、現在は疑問も出されている。晩年の1345年から1346年には、再びイタリアを訪れていた可能性がある。1347年3月には、娘のブランカが彫刻家ジャウマ・カスカイスと結婚している。同じ1347年には、ジュンケラス修道院のためのサンティアゴの祭壇画が、寡婦ティブルゲタによって依頼された。時祷書の彩飾とこの祭壇画は、記録の裏づけがある作品として伝わる。
バッサは1348年のペストの流行のなかで世を去った。文書の記録は1348年の半ばで途絶えており、息子のアルナウとともにペストで亡くなったとみられる。バッサはアラゴン=カタルーニャ連合王国にイタリア様式を持ち込んだ代表的な画家とされ、のちの歴史家は彼を「カタルーニャのジョット」と呼んだ。
同じ年に亡くなった人物
- Bernardo Tolomei (1348年)
- シャムスッディーン・ムハンマド・ザハビー (1348年)
- マーゾ・ディ・バンコ (1348年没)
- ベルナルド・ダッディ (1348年没)
- Rudolf IV of Baden-Pforzheim (1348年)
同じ地域に関係する人物
- ホアキナ・デ・ベドゥルナ (1854年没)
- ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス (2022年没)
- Pau Claris (1641年没)
- セサル・ロドリゲス・アルバレス (1995年没)
- ラモン・チャオ (2018年没)