伝記
オリバー・クロムウェルは、1599年4月25日に生まれ、1658年9月3日に没したイングランドの政治家、軍人で、イングランド共和国の初代護国卿である。イングランド東部のピューリタンで、ジェントリ階級の地主の家に生まれた。ヘンリー8世に仕えた政治家トマス・クロムウェルを、高祖母の兄弟に持つ名家であった。ケンブリッジ大学で学び、強い回心の経験を経て、生涯ピューリタンを貫いた。1620年にロンドンでエリザベス・バウチャーと結婚し、9人の子をもうけた。
1628年に庶民院議員となったが、翌1629年に議会が解散されると故郷に帰って治安判事を務め、1631年に土地を売って牧場を経営し、1638年にイーリーへ移った。1640年の短期議会と長期議会に選出され、議会派に属して、国王の専制と断固として対決したジョン・ピムのもとで、星室庁の廃止など王権を縮小する法案や、大諫奏、民兵条例の起草に携わった。議会派と王党派の対立から内戦が避けられなくなると、第一次内戦では軍の指揮官となった。
1642年10月23日、エッジヒルの戦いに敗れた直後、従兄で議会軍大佐のジョン・ハムデンに、酒場の給仕や職人の軍隊で上流の騎士たちと戦うのは難しく、これからは信者の軍をつくらなければならない、と語った。彼は手勢1,000名余を率いて、ノーフォークやケンブリッジシャーなど5州が連合した東部連合に参加した。この連隊は、私財1,100から1,200ポンドを投じてつくったもので、教派にこだわらず、キリスト教徒であれば誰でも用いた。ジェントリやヨーマンが中心のこの連隊は鉄騎隊と呼ばれ、のちのニューモデル軍の中核となった。1644年7月2日のマーストン・ムーアの戦いでは、ルパートの騎兵を潰走させて武名をあげた。1645年に指揮官のマンチェスター伯やエセックス伯が排除されて軍が再編されると、フェアファクスが率いるニューモデル軍の副司令官となった。
1645年6月14日のネイズビーの戦いでは右翼に布陣し、鉄騎隊が国王軍を押し返した。チャールズ1世が親衛隊を割いて追い払おうとした際、命令が誤って伝わって親衛隊が後退し、彼はその隙を逃さず国王の歩兵連隊を壊滅させた。国王軍は総崩れとなり、再建は不可能となって、国王はスコットランドへ逃れ、のち議会の監視下で軟禁された。1648年に国王が再び決起すると、プレストンの戦いでこれを大破した。軍は議会から長老派を追放し、1649年1月に国王の処刑が執行され、共和国が宣言された。
共和国の指導者となった彼は、平等派を弾圧し、アイルランドへ遠征して、1649年8月にダブリンへ上陸し、各地で住民の虐殺を行ったとされる。1650年にスコットランドへ遠征し、9月3日のダンバーの戦いで王党派を破り、翌1651年9月3日のウスターの戦いで、チャールズ率いる軍を撃破して、皇太子を大陸へ追いやった。1653年にランプ議会を解散し、12月16日に終身の護国卿となった。外交では1654年にオランダと講和し、1655年にはジャマイカを占領した。国内では軍政による独裁を行ったが、議会から国王への就任を2度望まれても拒み、護国卿のまま統治した。1657年にはユダヤ人の追放を解除した。
1658年にインフルエンザで死去し、ウェストミンスター寺院に葬られた。跡を継いだ息子リチャードは軍を抑えられず引退し、護国卿政は短い歴史を閉じた。1660年の王政復古後に墓を暴かれ、遺体は絞首刑の後に斬首され、首は四半世紀にわたって晒された。評価は今も、優れた指導者か強大な独裁者かで分かれる。
同じ年に亡くなった人物
- ベルトゥッチョ・ヴァリエル (1658年没)
- フランチェスコ1世・デステ (1658年没)
- ルスタム・ハーン (1658年)
- リチャード・ラブレース (1658年没)
- バルタサル・グラシアン (1658年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジョセフ・ロートブラット (2005年没)
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- ジョージ・エベレスト (1866年没)
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