伝記
サー・ジョセフ・ロートブラットは、1908年11月4日に当時ロシア帝国の支配下にあったポーランドのワルシャワで生まれ、2005年8月31日に亡くなったポーランド生まれのイギリスの物理学者、平和活動家である。ユダヤ人の家庭に7人きょうだいの一人として生まれたが、うち二人は幼いころに亡くなった。
父ジグムントは、ポーランド全国で荷馬車の運送業を営んでおり、ロートブラットの幼いころの家は裕福だった。しかし第一次世界大戦の勃発で国境が閉ざされ、馬も徴用されて事業は破綻し、一家は貧しくなった。宗教的な教育を受けていたものの、10歳のころには神の存在を疑うようになり、のちに不可知論者になったとされる。中等教育のために通う学校へは行く余裕がなく、地元のラビが教える学校で学び、その後は技術学校で電気工学を学んで1923年に卒業した。卒業後はワルシャワで電気工として働いたが、物理学者になる志を抱いていた。大学入学資格を取得していなかったが、その必要がないポーランド自由大学の試験を1929年1月に受け、物理は容易に通った。面接をした理学部長のルドヴィク・ヴェルテンシュタインは、パリでキュリー夫人に、ケンブリッジでラザフォードに学んだ人物で、入学を認めた。1932年に修士号を取得し、のちにワルシャワ大学に移って、1938年に物理学の博士号を取得した。同大学の物理学科のフェローとして勤務し、1938年にはポーランド自由大学の原子物理学研究所の副所長にもなったとされる。1930年に学生の夏のキャンプで知り合った文学部の学生トーラ・グリンと結婚した。
第二次世界大戦の前には、核分裂のときに中性子が放出されることを示す実験を行った。1939年春からは、キュリー夫人に連なるポーランド関係者のパリでの人脈と、リヴァプール大学のジェームズ・チャドウィックの口利きにより、サイクロトロンの研究のためにパリに滞在した。ポーランドに大型のサイクロトロンをつくる構想を温めていた。パリにいる間にナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、故郷へ戻れなくなった。妻のトーラは、病気のためパリへ同行できずワルシャワに残っており、のちにホロコーストの犠牲になって、ベウジェツ強制収容所で亡くなった。この死は、ロートブラットの人生に深い影響を与え、彼は再び結婚することはなかった。のちにイギリス国籍を取得し、ポーランドとの二重国籍となった。
マンハッタン計画に参加したが、ナチス・ドイツに原爆を開発する能力がないことが明らかになると、もはや不要だとして、完成を待たずに計画から脱退した。のちにはラッセル=アインシュタイン宣言に署名した11人の科学者の一人となり、パグウォッシュ会議の会長を務めた。1995年にパグウォッシュ会議とともにノーベル平和賞を受賞した。王立協会のフェローにも選ばれている。生涯、自らがポーランド人であるという意識を強く持ち、亡命ポーランド人の共同体で暮らしてポーランド語を話し、「私はイギリスのパスポートを持っていますが、ポーランド人です」と語っていた。日本語に訳された著書に、『科学者の役割』『核戦争と放射線』『核兵器のない世界へ』のほか、池田大作との共著『地球平和への探求』などがある。
同じ年に亡くなった人物
- マイケル・ピラー (2005年没)
- Juan Pedevilla (2005年没)
- ジャン・ケイロル (2005年没)
- フリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ (2005年没)
- ヴィンセント・ジガンテ (2005年没)
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