伝記
リヒャルト・カール・フライヘア・フォン・ヴァイツゼッカーは、1920年4月15日にシュトゥットガルト新宮殿の一室で生まれたドイツの政治家であり、弁護士である。外交官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーの息子で、兄2人と姉が1人おり、長兄は哲学者であり物理学者のカール・フリードリヒだった。祖父カールはヴュルテンベルク王国の文化相、首相を歴任し、1916年に世襲の男爵の称号を授けられた。父の転勤に従って、スイスのバーゼル、デンマーク、ノルウェーのオスロ、スイスのベルンで過ごし、1937年にベルリンに戻ってギムナジウムを卒業した。その後、イギリスのオックスフォード大学やフランスのグルノーブル大学に留学し、哲学や歴史学の講義を聴講した。
1938年に兵役でドイツ国防軍に入営し、ポツダムの連隊に配属された。同じ連隊に少尉として次兄のハインリッヒがいたが、1939年9月に第二次世界大戦が始まると、開戦翌日の戦闘で、数百メートル離れた地点で次兄が戦死した。1941年には東部戦線でソ連軍と戦い、夏に最初の負傷をした。のちに予備役大尉となった。同じ部隊の戦友にはヒトラー暗殺計画に加わった将校がおり、計画を打ち明けられたという。1945年4月に東プロイセンで軽傷を負って後送され、5月8日の終戦はリンダウで迎えた。戦後はゲッティンゲン大学で法学を学んだが、1947年から1949年には、ニュルンベルク裁判で外務次官として裁かれていた父の弁護のために休学し、弁護士の事務所で助手として手伝った。1955年に法学博士号を取得した。1953年にマリアンネ・フォン・クレッチマンと結婚し、4人の子に恵まれた。
企業や銀行で働いたのち、1954年にキリスト教民主同盟に入党し、1966年から1984年まで党の連邦代表委員を務めた。教会大会の議長を務めていたため、1966年の連邦議会選挙への出馬は辞退した。1968年にヘルムート・コールから党の連邦大統領候補に推薦されたが、党内投票で敗れた。1969年に連邦議会議員に初当選し、1981年まで4期務めた。1974年の連邦会議では党の大統領候補になったが、ヴァルター・シェールに敗れた。1979年から1981年は連邦議会副議長を務めた。1981年の西ベルリン市議会選挙でCDUが48パーセントの得票率で第一党になり、市長に就任した。
1984年5月23日の連邦会議で第6代連邦大統領に選ばれ、7月1日に就任した。1989年に再選されたが、このときは候補者が1人だけだった。1985年5月8日の連邦議会での演説、いわゆる「荒れ野の40年」では、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」と語り、罪は集団的ではなく個人的なものであり、全員が過去を引き受けねばならないと述べた。この一節は日本で、雑誌『世界』などを通じて有名になった。ただ、ヴァイツゼッカーは子孫にまでナチスの罪を問うことに批判的でもあり、父の弁護を手伝った経歴から、この一節に賛意を示す人々が思うような人物ではないとする見方もある。1994年6月30日に退任したのちは、連邦軍改革委員会の議長に任命された。1992年にナンセン難民賞、1995年に早稲田大学の名誉博士号を受けた。2015年1月31日に死去し、2月11日にベルリン大聖堂で国葬が行われた。
同じ年に亡くなった人物
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