伝記
マックス・リーバーマンは、1847年7月20日にベルリンで生まれたドイツの画家で、ベルリン分離派の創立者の一人である。ベルリンのユダヤ人実業家の息子で、初めは法学や哲学を学んでいた。その後、1869年にヴァイマル、1872年にパリ、1876年にはオランダへ移って絵画を学んだ。いったんミュンヘンに住んだのち、1884年にベルリンに戻り、残りの生涯をそこで過ごした。
当初は田園の人物や自身の生活の情景を描いた。のちにロヴィス・コリント、マックス・スレーフォークトらとともにドイツ印象派を代表する画家となった。受け継いだ遺産はフランス印象派の絵画の収集にも費やした。やがて自宅の庭の風景に加えて、市民階級など富裕な層の生活風景や肖像画を描くようになり、ドイツの美術界や上流社会で尊敬される存在となった。ただし、より新しい世代のゴッホなどはあまり評価せず、ベルリンの国立美術館がゴッホの作品を巨額で購入した際には、非難の一文を書いている。
世紀の変わり目のベルリンでは新しい美術様式を求めるユーゲント・シュティールが起こり、1895年には有志が文芸雑誌『パン』を創刊した。リーバーマンは創立者の一人として、表紙のパーン神の頭部をフランツ・フォン・シュトゥックとともに描き、版画も寄せた。1899年から1911年まで、ベルリン分離派を指揮した。さらに1920年から1932年にはプロイセン芸術院の総裁を務め、プール・ル・メリット勲章を受け、ベルリン名誉市民に推されるなど、老齢になってもドイツ画壇に君臨した。
しかし1933年にナチ党が権力を握ると、ユダヤ人の出自を理由に非難されるようになり、芸術院からもナチス体制へどのような態度を取るのかを問われた。同年5月、芸術家が出自や政治によって非難されるような状態では芸術院にとどまれないとして、名誉総裁の称号を返上した。発表の機会や栄誉をすべて失った画家は、1935年2月8日に世を去った。数十年にわたってベルリンの名士で芸術院の重鎮でもあったにもかかわらず、葬儀に立ち会ったのは、ケーテ・コルヴィッツら数名だけであったという。
同じ年に亡くなった人物
- ルーファス・アイザックス (初代レディング侯爵) (1935年没)
- フーゴー・ユンカース (1935年没)
- アルトゥル・ハンチュ (1935年没)
- アルバン・ベルク (1935年没)
- ユゼフ・ピウスツキ (1935年没)
同じ地域に関係する人物
- オットー・ザンダー (2013年没)
- グスタフ・キルヒホフ (1887年没)
- マリー・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ (1877年没)
- カール・ハリース (1923年没)
- ヨハン・グスタフ・ドロイゼン (1884年没)