伝記
金泳三(キム・ヨンサム)は、韓国の第14代大統領(在任1993年から1998年)を務めた政治家である。生年は1927年12月20日とも1929年1月14日ともされ、慶尚南道の巨済島の出身で、実家は網元だった。父は1930年代末にカタクチイワシ漁と煮干しの製造で漁場と十数隻の漁船を持ち、島で一番の金持ちともいわれた。日本統治下の1943年から1945年まで統営中学校に通い、教頭の渡辺巽が韓国人と日本人の生徒を区別しなかったことに敬慕の念を抱いた。1954年に国会議員に初当選したあとには渡辺夫妻を韓国に招き、大統領就任後も遺族を官邸に招いている。ソウル大学哲学科を卒業して、1952年に張沢相国務総理の秘書官となり、1954年の第3代国会議員選挙に自由党候補として巨済から立候補して、26歳の当時最年少の国会議員として当選した。
議員となってからは長く野党の立場で活動し、金大中とともに民主化運動を代表する政治家の一人となった。朴正煕政権から全斗煥政権の軍事政権時代には弾圧も受け、1969年には暴漢に硝酸を浴びせられ、中央情報部による犯行と推定されている。1979年にはアメリカの新聞記者とのインタビューをめぐって国会議員を除名され、自宅軟禁も経験した。1985年3月に全斗煥大統領により政治活動を解禁された。1987年の第13代大統領選挙では金大中と共に盧泰愚に敗れ、1990年に盧泰愚、金鍾泌と手を組んで三党を合同し、与党の民主自由党が誕生した。この党の候補として1992年の大統領選挙に当選した。
大統領になると、朴正煕政権以来32年続いた軍事政権は終わり、金泳三政権は文民政権と呼ばれた。軍内の秘密組織ハナ会を解体して会員を退役させるなど軍の改革を進め、野党政治家や運動家、大学教授を積極的に登用し、高級官僚の不正を追及して大法院長や検事総長らが辞任した。任期中は献金を受け取らないと宣言し、青瓦台での昼食はカルグクスにすると明言した。不正の温床だった仮名口座での取引をなくすため金融実名制も実施し、最初の年の支持率は80パーセントを超えた。1993年には旧朝鮮総督府庁舎の解体を決め、1995年8月15日に解体が行われた。一方で、次男の金賢哲は「小統領」と呼ばれるほど権威を振るい、1997年に斡旋収賄などの容疑で拘束された。聖水大橋の崩落や三豊百貨店の崩壊といった大事故も相次ぎ、この時代は「事故共和国」と揶揄された。
任期終盤の1997年にはアジア通貨危機に見舞われた。金一家と親しかった韓宝グループ傘下の企業が不渡りを出し、起亜自動車の倒産などを経て国際通貨基金に援助を要請する事態となった。これは国民に恥辱として受け取られ、支持を失ったまま任期を終えた。1999年6月には金浦空港で、71歳の男にペンキ入りの卵を顔に投げつけられる事件も起きた。2002年から早稲田大学の特命教授となり、年に約2回の訪日の際には、流暢な日本語で講義を行った。2015年11月22日、ソウル大病院で敗血症と急性心不全のため87歳で死去し、同月26日に韓国史上初の国家葬が営まれた。死後には再評価の動きがあるという。