伝記
アラン・レネは1922年6月3日、フランス西部ブルターニュ地方のヴァンヌに生まれた映画監督である。父は薬剤師で、一人っ子だった。持病の喘息のため学校にはあまり通えず、家庭で教育を受けた。漫画から古典まで読みあさる読書家だったが、10歳のころから映画に関心を持ち、12歳の誕生日に両親から8ミリカメラを贈られて、短編映画を撮り始めた。次第に俳優を志すようになり、1939年にはパリに移って、俳優ジョルジュ・ピトエフの劇団で働いた。1940年から演技を学んだが、映画編集の技術を身につけようと、1943年に高等映画学院に入学し、講師の映画監督ジャン・グレミヨンから最も影響を受けた。
1945年に兵役に就き、1946年にパリへ戻ると、映画編集者として働きながら短編映画も撮り始めた。短編『ある同一性の素描』を撮る際には、俳優ジェラール・フィリップに出演を頼んでいる。数本の短編ドキュメンタリーを経て、1948年に画家ゴッホを扱う短編を手がけた。当初は16ミリで撮ったが、プロデューサーのピエール・ブロンベルジェに35ミリでの撮り直しを求められ、完成した作品はアカデミー賞の短編映画賞を受けた。絵画をめぐる映画は1950年の『ゲルニカ』『ゴーギャン』と続き、1953年には、フランスの植民地政策によるアフリカ芸術の破壊を扱った短編『彫像もまた死す』を、クリス・マルケルと共同で撮っている。
1955年の『夜と霧』は、ナチスの強制収容所を扱った最初期の映画の一つとされる。1956年のカンヌ国際映画祭では、西ドイツ大使の要請を受けたフランス外務省に出品の取り下げを命じられ、コンペティション部門の外での上映となった。1959年には初の長編劇映画『二十四時間の情事』を、日本の広島を舞台に撮った。フランス人が日本人の体験した原爆被害をどこまで知りうるのかという問いから、作家マルグリット・デュラスに脚本を頼み、フランス人女優エマニュエル・リヴァと日本人俳優岡田英次を起用して、国の異なる者同士の恋愛を通じて異文化交流の可能性を探った。この作品もカンヌへの出品は見送られたが、文化大臣アンドレ・マルローの尽力で部門外上映が実現し、現在ではヌーヴェル・ヴァーグの最も重要な作品の一つと位置づけられている。これをきっかけに、アニエス・ヴァルダ、マルケルらとともに「セーヌ左岸派」と呼ばれるようになった。
1961年の長編第2作『去年マリエンバートで』は、マルローの判断でカンヌへの出品を拒まれたが、同年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受け、難解とされる作風とともに注目を集めた。脚本の作家アラン・ロブ=グリエによれば、黒澤明の『羅生門』に触発された作品だという。以後も『ミュリエル』(1963年)や『戦争は終った』(1966年)で、戦争が個人の精神や記憶に及ぼす影響を描いた。1968年の『ジュ・テーム、ジュ・テーム』からは作風を変え、1980年の『アメリカの伯父さん』ではカンヌ審査員特別グランプリを受け、1997年の『恋するシャンソン』では台詞の代わりにシャンソンで物語を進めた。セザール賞監督賞は『プロビデンス』(1977年)と『スモーキング/ノースモーキング』(1993年)で2度受け、2006年には『六つの心』でヴェネツィアの銀獅子賞を得た。
遺作の『愛して飲んで歌って』は、2014年2月のベルリン国際映画祭に出品され、通常は若手監督が受けるアルフレッド・バウアー賞を、91歳で受賞した。同年3月1日、パリで亡くなった。
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