伝記
トゥールのマルティヌスは、316年頃に生まれ、397年(一説には400年)に没した、キリスト教の聖人である。殉教をせずに列聖された最初の人物とされ、日本のカトリック教会では聖マルチノ(ツール)司教と表記される。ローマ帝国領パンノニア州のサバリア(現在のハンガリーのソンバトヘイ)で、異教徒の家庭に生まれた。父はローマ軍の将校(トリブヌス)で、彼が生まれて数年後に退役軍人の地位と土地を与えられ、一家は北イタリアのパヴィーアに移り、彼はそこで育って教育を受けた。10歳の頃から両親の意に反して教会に通い始め、洗礼志願者となったといい、洗礼を受けたのは334年頃ともいわれ、時期には異説がある。将校の子として軍への入隊が義務づけられ、ガリアのアミアンに配属された。
アミアンでの「マントの伝説」は特に有名である。非常に寒い日、彼は城門で半裸で震える物乞いを見て気の毒に思い、マントを二つに裂いて半分を与えた。その夜、キリストが半分のマントを身にまとった姿で現れる夢を見たという。この物乞いはイエス・キリストであったといわれ、これが受洗のきっかけとなり、その後軍を除隊した。マルティヌスが持っていたほうの半分は「聖マルティヌスのマント」としてフランク王国の歴代国王の礼拝堂に保管され、マントを意味する語に由来して、礼拝堂(チャペル)の語も生まれたと伝えられる。生涯を記したのは、彼を直接知っていた同時代のスルピキウス・セウェルスで、この伝記には悪魔祓いや病の治癒などの奇跡が数多く語られている。
除隊後は、聖ヒラリウスの弟子になるためポワティエへ向かう前に、まず両親のいるロンバルディアへ行こうとした。しかし、そこにはカトリックを敵視するアリウス派が多く、彼はガリアに戻ろうとした。そのうちに、アリウス派の勢力によってヒラリウスが追放されたと知り、ティレニア海のガリナリア島に逃れた。勅令によりヒラリウスがガリアへ戻ったのを知ると、ポワティエへ急いだ。361年、ポワティエから少し離れた地域(現在のリグージェ)を教化する許可を得ると、多くの修道士が周りに集まり、これが西方教会最初の修道院となった。伝道にも熱心で、病人の治療も行ったといわれる。
371年(または372年)にトゥールの司教リドリウスが亡くなると、聖職者たちは彼に司教就任を求めたが、乗り気でなかった。そこである市民が、死期の近い妻に会ってほしいと彼を誘い出してトゥールの町に入ると、人々が喝采で出迎えたという。司教となった後も、マルムーティエ修道院を作り、トゥーレーヌ一帯のキリスト教化の拠点とした。司教としてはガリア・ローマ的な宗教の名残を抑える役割も果たしたが、禁欲的なプリスキリアヌス派への暴力的な迫害には反対した。トリーアに赴いて皇帝に犯罪者の赦免を請うこともあり、異端とされたイベリア半島の聖職者プリスキリアヌスの赦しも願ったが、彼は斬首の刑に処され、マルティヌスは大いに嘆いたという。最後のローマ訪問ののちカンドで81歳で没した。遺体はトゥールに葬られ、その上に質素な礼拝堂が建てられて、のちに大聖堂となった。この大聖堂は1230年に火災で焼け、宗教改革やフランス革命でも被害を受けたが、のちに小規模ながら再建された。西方教会の聖名祝日は11月11日である。フランスとドイツの守護聖人で、騎士や兵士、物乞い、ホテル経営者などの守護聖人でもある。
同じ年に亡くなった人物
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- Nectarius of Constantinople (397年)
- オプタトゥス (397年)
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