伝記
ジミニャーノは、4世紀のカトリック教会の助祭で、のちにモデナの司教となった人物である。ジェミニアーノとも表記され、聖ジミニャーノ、サン・ジミニャーノ、サン・ジェミニアーノなどとも呼ばれる。カトリック教会でもギリシア正教会でも聖人とされ、モデナの守護聖人である。生年は312年ともいわれ、イタリアのモデナ近郊のコニェントで生まれたとされる。没したのは397年1月31日で、この日が聖名祝日になっている。没した地は、現在サン・ジミニャーノと呼ばれている。
確かな記録は少なく、生涯についての情報はずっと後の時代に書かれた伝記に由来する。確実に名が見えるのは390年で、このとき聖アンブロシウスがミラノで招集した公会議に参加している。名前から、ジミニャーノは元老院議員を出す階層の出身だったと推測されている。伝承によれば、聖アタナシウスがガリアへ追放されて向かう途中でモデナを通ったとき、ジミニャーノは彼を手厚く迎えた。のちに聖ヨハネス・クリュソストモスも同じもてなしを受けたという。ジミニャーノはアリウス派と、ヨウィニアヌス主義に反対した。ヨウィニアヌス主義とは、洗礼を受けた者は何をしても罪から守られると説いた修道士の教えで、ニカイア派の教会は異端とみなした。
モデナの人々はジミニャーノを深く敬い、聖母マリアへの崇敬の熱心な擁護者でもあったとされる。奇跡を行う者、悪魔祓いをする者としても知られる。伝承では、ビザンティン皇帝ヨウィアヌスの娘から悪霊を祓ったとされ、美術ではその場面や、海上の嵐を静める人物として描かれることがある。また司教としては、モデナの町の模型を手にした姿で表される。このため、子どもを守る聖人として信仰される町もあり、聖人の像や絵にはしばしば子どもが添えられる。コニェントには聖人にちなむ奇跡の泉があり、癒しの水として知られている。
ジミニャーノの墓の上には、5世紀にはすでに教会が建てられ、現在の大聖堂に接していた。この教会は、もとのローマ都市の中心の外にあった。中世初期にはモデナがジェミニアーノの都市と呼ばれることもあった。モデナは飢饉、疫病、戦乱のたびにジミニャーノの加護を求めた。敵軍が町を落とさずに包囲を解いたとき、すなわち452年のアッティラ率いるフン族、のちのハンガリー人、1511年のカンブレー同盟戦争でのシャルル・ダンボワーズ率いるフランス軍の際には、ジミニャーノこそが町の救い主と考えられた。フン族の侵入からは、濃い霧を呼んで町を隠して救ったと伝えられる。
聖人への信仰は今日に至るまで途切れることなく続き、町の平和と社会の和合を保つ支えになっていると信者は受け止めている。聖遺骨は、1106年にトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサとモデナ司教ドドーネの立ち会いのもと、新築された大聖堂へ厳かに移された。12世紀の写本によれば、遺骸の移葬は1106年4月30日に、確認は10月7日に、教皇パスカリス2世、マティルデ、そしてモデナの人々の前で行われた。1184年7月12日には、ヴェローナへ向かう途中の教皇ルキウス3世が、再び遺骨を確認している。守護聖人としてはモデナのほか、トスカーナのサン・ジミニャーノ、ポントレモリ、フランスのヴィエルミュル・シュル・アゴーなどで崇敬される。ヴェネツィアのサン・マルコ広場の向かいにも聖ジミニャーノ教会があったが、1807年に取り壊された。
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