伝記
テオドシウス1世は、347年1月11日、ローマ帝国の上級将校だった大テオドシウスの子として、カウカ(現在のスペイン北部セゴビア県)に生まれた。テオドシウス大帝とも呼ばれる。368年にブリタンニアで起きた軍の反乱の鎮圧に赴いた父に同行し、374年にはドナウ川下流の属州モエシアの軍司令官となった。しかし376年、反乱の疑いをかけられた父が処刑されると、彼は軍を退いて故郷のカウカに戻った。378年、東帝ウァレンスがハドリアノポリスの戦いで戦死すると、西方のグラティアヌスから東方の共同皇帝に任命され、379年に即位した。
東方はおおむね安定していたが、ハドリアノポリスの戦い後にバルカンに定住したゴート族などの対策に追われた。この戦いの影響は大きく、グラティアヌスが自らの属州イリリアの統治を放棄してガリアのトリーアへ退くほどだった。彼は東方全土に布告を出して退役兵などを召集し、ドナウ南岸の人々も徴兵してゴート族の掃討にあて、戦果を挙げた。だが、379年にサーサーン朝のシャープール2世が死去して後継者争いが起こり、東方が不穏になったため、これ以上の戦闘は難しいと考え、ゴート族にトラキア北部への移住を認めた。彼らは同盟者として移住したので納税の義務がなく、ドナウ河畔は一時的に安定したが、帝国の蛮族化は急速に進み、この政策は、彼の死後の395年に、西ゴート族の族長アラリック1世の反乱で破綻した。
キリスト教の面では、379年冬に大病を患った際、三位一体派のテッサロニキ司教アコリオスから洗礼を受け、ニカイア信条に忠実な立場をとった。380年2月28日には、グラティアヌスらとともに、ローマ教皇ダマスス1世らが支持する三位一体の信仰を守らせ、これを信じない者を異端として罰する勅令を発し、同年11月には三位一体派でなかったコンスタンティノポリス大主教を追放して、ナジアンゾスのグレゴリオスを後任とした。381年には非キリスト教の神への犠牲を禁じ、女祭司への国庫の支出も止めたため、フォロ・ロマーノの「聖なる火」も消えた。392年にキリスト教を東方の国教に定め、後に西方でも同様にし、393年には古代オリンピックを廃止した。これらの政策はミラノ司教アンブロジウスの影響が強かったとされ、彼自身が敬虔だったかは疑わしく、洗礼も大病で気弱になったためだとする推測もある。390年、テッサロニキで暴徒が行政長官らを殺す事件が起こると軍を送って多数の住民を殺させ、アンブロジウスが抗議して謝罪まで破門すると訴えたため、彼は約8か月抵抗したのち屈し、司教の足元に許しを請うた。
383年にグラティアヌスがマクシムスの反乱で殺され、387年にマクシムスがイタリアに侵入すると、逃れてきたウァレンティニアヌス2世を支持して、翌388年にマクシムスを処刑し、ウァレンティニアヌスを復位させた。彼はミラノに留まって腹心を要職に就け、391年にコンスタンティノポリスへ戻った。392年、ウァレンティニアヌス死後にアルボガストが擁立したエウゲニウスを、394年、次男ホノリウスを西方皇帝に名乗らせた上でフリギドゥスの戦いで破り、没するまでの4か月、東西を実質的に単独で支配した。395年1月17日、ミラノで48歳で死去し、二人の息子に東西を分担統治させた。
同じ年に亡くなった人物
- ニュッサのグレゴリオス (395年)
- Moses the Black (395年)
- ルフィヌス (395年没)
- アンミアヌス・マルケリヌス (395年)
同じ地域に関係する人物
- ペッレグリーノ・ティバルディ (1596年没)
- ベアトリーチェ・デステ (1497年没)
- ルキウス・ウアリウス・ルフス (紀元前13)
- Virgilio Mantegazza (1928年没)
- アントニオ・バッジーニ (1897年没)