伝記
アンミアヌス・マルケリヌスは、ローマ帝国後期の軍人であり歴史家である。325年または330年頃に生まれ、391年以後に没したとされ、没年は400年頃とする推測もある。全31巻の『歴史』を著した。
おそらくシリア属州のアンティオキアに生まれ、ギリシア人で、高貴な家柄の出と推測される。353年には近衛の精鋭にあたる護衛官の一員であり、これも貴族の出身を示すとされる。皇帝コンスタンティウス2世の治世に軍に入り、メソポタミア属州ニシビスの司令官ウルシヌスの麾下で軍人としての経歴を始めた。以後の7年ほどは、友情と親愛で結ばれていたというウルシヌスのもとで各地の遠征に加わった。359年にウルシヌスが皇帝に召還されるとともにイタリアへ戻り、ガリアの兵士たちに皇帝に擁立されたフランク族のシルウァヌスに対する遠征に同行した。その後ウルシヌスのもとで二度東方へ赴き、サーサーン朝のシャープール2世との間で行われた359年のアミダ攻防戦では、決死の脱出を遂げた。ウルシヌスが司令官の地位を解かれると、アンミアヌスも一時降格されたようである。
361年にユリアヌスが皇帝となると地位は回復した。ユリアヌスに深く心酔しており、その下でアラマンニ人との戦いや、363年のペルシア遠征に従軍した。ユリアヌスの死後は、皇帝ヨウィアヌスとともにアンティオキアまで撤退し、その後に軍を退いた。アンティオキアに戻って378年まで暮らし、その間に地理、歴史、科学の古今の書物に触れたとされる。のちにローマに移り住み、380年頃からそこで『歴史』を書いた。執筆は383年から397年のあいだともいわれ、主な発表の方法は、教養ある聴衆の前での公開朗読だった。ギリシア人でありながら、ローマの読者に向けてラテン語で書いた。リバニオスの手紙が続きを書くよう励ましており、同時代の評価は高かったことがうかがえる。異教徒で、キリスト教徒のコンスタンティウス2世よりも異教徒のユリアヌスに好意的だったことが知られている。
『歴史』はネルウァ帝の即位(96年)からウァレンス帝の戦死(378年)までを扱う。タキトゥスの後継をもって任じていた。もとは31巻あったが最初の13巻は失われ、残る後半18巻は、自身が生きた時代、ガルス副帝の死の前年(353年)からハドリアノポリスの戦い(378年)までを描く。現存部分は25年ほどの期間に18巻を割いている。本人が登場人物として顔を出すため、細部が豊かである。度重なる外征による国内体制の疲弊、中流層の経済的没落、軍規の乱れによって崩れていく帝国を浮き彫りにし、のちのゴート戦争による衰退を予測させる。フン族の習俗についての有名な記述も第31巻にある。
明晰で視野の広い叙述は高く評価されている。エドワード・ギボンは『ローマ帝国衰亡史』で、アンミアヌスを偏見や感情に流されずに自分の時代を正確かつ誠実に記した案内人と絶賛した。現在の研究者は、この時代に特有の誇張表現も指摘するが、公に出版するつもりで書かれた以上、単純さを犠牲にしても派手な記述が必要な場合があったためで、問題になる程度ではないとされる。文体は荒々しく、大げさな表現や曖昧な部分もあるが、社会や経済の問題を見事に描き、ローマ帝国内の非ローマ人に対してはリウィウスやタキトゥスより広い視野を示す。エーリヒ・アウエルバッハは、優れた表現力の持ち主と評した。
同じ年に亡くなった人物
- テオドシウス1世 (395年没)
- ニュッサのグレゴリオス (395年)
- ルフィヌス (395年没)
- Moses the Black (395年)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。