伝記
ロジャー・ジョゼフ・イーバートは、1942年6月18日にイリノイ州アーバナで生まれた映画評論家、テレビ司会者、作家である。少年時代にSF同人誌への投稿で物書きの道を歩み始め、10代のころはSFファンの世界に出入りして、多くの同人誌に記事を書いた。アーバナ高校の時代には、隣のシャンペーン市の新聞でスポーツ記者を務めてジャーナリズムに関心を持ち、上級生になると学校新聞の副編集長となった。1958年には、イリノイ州の高校スピーチ連盟選手権で、ラジオのニュースを模した原稿を読む部門に優勝した。
イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校に入り、学生新聞の編集長を務めた。最初の映画評は、1961年10月に載せた『甘い生活』の批評だった。国際ロータリーの奨学金でケープタウン大学の大学院で英語を研究し、シカゴ大学の博士課程にいたとき、シカゴ・サンタイムズ紙から、同紙の映画評論家にならないかと誘われた。1967年に評論家としての経歴を始め、以後ずっとこの新聞に映画評を書き、その連載は国内外の200以上の新聞に配信された。1969年には『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を評した記事がリーダーズ・ダイジェストに転載されるなど評価が高まり、1975年には、映画評論家として初めてピューリッツァー賞の批評部門を受賞した。
1976年、シカゴ・トリビューン紙の映画記者で、すでにテレビ番組の司会もしていたジーン・シスケルと組み、シカゴの公共テレビ局が制作する映画批評番組『スニーク・プレビューズ』の司会を始めた。二人が新作2本を紹介し、見どころや評価を論じる番組で、最後に「その週の最悪の映画」をユーモラスにこき下ろす場面もあった。1978年に公共放送網PBSで全国に配信されて人気番組となり、1982年には商業放送局に移り、のちに『シスケル&イーバート&ザ・ムービーズ』となった。意見が分かれることも多く、擁護と否定でしばしば激しく議論した。最後に親指を立てるか下げるかで評価を示し、二人がともに「親指を上げた」映画は、観客数にも影響が出ることがあった。1999年にシスケルが脳腫瘍で亡くなると、番組は題を改めて毎回違うゲストを招き、2000年の秋からは、同じ新聞のコラムニスト、リチャード・ローパーが司会を務めた。
評論は「絶対的でなく相対的」なものと考え、星の数は評論のなかで読まれてこそ意味があると強調した。暴力を権威が後ろ盾にして描く映画には嫌悪が強く、法的手続きを無視して行動する1970年代の警官映画を「ファシスト」と呼んだこともある。1988年の『ダイ・ハード』への酷評のように、世間の評価と衝突することもあった。1970年には映画監督ラス・メイヤーに手紙を書いたことから、カルト映画となった『ワイルド・パーティー』の脚本を共同で書いた。著書は15冊以上で、年鑑も毎年出した。1999年からは、イリノイ州シャンペーンで毎年映画祭を主催した。2005年6月には、映画評論家として初めてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星を刻まれた。
1993年に弁護士と結婚した。2002年にがんの手術を受け、2006年には転移したがんのため下あごを切除して、話すことも食べることもできなくなった。それでも2011年の講演会では、コンピューターで作った声で感動的なスピーチをした。2013年4月4日に亡くなった。
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