伝記
王献之は、中国東晋の書家である。344年に生まれ、386年に没した。字は子敬。書聖と称される王羲之の七男で、最年少の子にあたる。中書令となったことから、世に王大令とも呼ばれる。母は郗鑒の娘の郗璿で、琅邪の王氏という有力な一族の出身である。
王羲之の子はみな能書家であったが、王献之は最年少ながら書の天分に恵まれ、父の書より逸気に富むといわれる。一方で、骨格だけは父に及ばないともいわれる。のちに父とともに二王と称され、羲之が大王、献之が小王と呼ばれた。父は早くから才能に気づき、7歳ごろから書を教え始めたとされる。逸話では、王献之が練習している時、背後から父が筆を引き抜こうとしたが抜けず、筆を強く握っていることから、きっと上手くなるだろうと言ったという。また、父が都の建康へ出かける際に壁へ書いた文字を、王献之がきれいに拭き取って書き換え、父より上手いと密かに悦に入っていたことがあった。帰宅した王羲之は壁の字を見て、出かける時はよほど酔っていたらしい、どうもこの字は下手だ、と嘆き、王献之はそれを見てひどく恥ずかしく思ったという。
書風の特徴の一つは一筆書で、中秋帖などに見られる続け書き(連綿)である。この書風は王鐸や米芾らに影響を与えた。行書と草書の特徴を併せ持つ行草体を磨いたことでも知られ、鴨頭丸帖はその優れた例とされる。唐代までは、その影響力と名声は父をしのぐほどであったともいう。楷書もよくし、小楷を伝える作は洛神賦十三行だけである。これは魏の曹植の『洛神賦』の書写で、前後を欠き、中間の13行が南宋時代に刻された石刻とその拓本として残る。
代表作には、唐代まで来歴をたどれる唯一の書跡で最も信頼性が高いとされる廿九日帖がある。遼寧省博物館に現存する模写本、万歳通天進帖に収められている。十二月帖は行草体で、米芾が収蔵して真跡として尊重したことで有名である。米芾自身が制作した石刻の断片拓本が残り、完全な形では宝晋斎帖に収録されている。鴨頭丸帖は草書2行で、淳化閣帖にも収められ、上海博物館には絹本の墨書があるが、模写本と推定されている。地黄湯帖は行書で、宋の高宗の書簽があり、のちに文徴明の蔵となり、現在は東京の台東区立書道博物館が所蔵する。中秋帖は行頭に中秋の文字があるのでこの名があり、前後が欠けて中間3行22文字が残るだけだが、連綿体の華麗さと筆勢の気魄がある。
家族では、最初の妻は郗道茂で、郗璿の弟の郗曇の娘にあたり、のちに離婚した。娘の王玉潤は夭折した。のちに簡文帝の三女である新安公主の司馬道福を妻とし、その娘の王神愛は安帝の皇后の安僖皇后となった。愛妾の桃葉は、秦淮河を渡るたびに王献之が自ら迎えたとされ、二人が会った渡し場は後世に桃葉渡と呼ばれた。臨終の際に心残りを尋ねられると、郗道茂と離婚したことだけが悔いだと答えたといわれる。42歳で世を去り、働き盛りでの死であった。
同じ年に亡くなった人物
- エルサレムのキュリロス (386年没)
- デモフィリス (386年)
- 廃帝 (東晋) (386年没)
- アエリア・フラキア (386年)
同じ地域に関係する人物
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- 蒲松齢 (1715年没)
- 康有為 (1927年没)
- 駱賓王 (684年没)
- 劉賀 (紀元前59年没)