HISTORICAL PERSON · 386年没

廃帝 (東晋)

東晋の第7代皇帝で、成帝の次男。同母兄の哀帝の崩御で即位したが、桓温の専横が続き、371年に「不妊になった」と讒訴されて廃位、海西公に降格された。のち酒に耽って才を隠し、天寿を全うした。

生涯
386年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

廃帝は、東晋の第7代皇帝である。諱は奕、字は延齢で、廃位後の称号から海西公とも呼ばれる。「廃帝」は諡号や廟号ではなく、廃された皇帝という意味の呼び名である。第3代皇帝成帝の次男で、342年に生まれた。母は成帝の妾の周氏で、一歳年上の同母兄が、のちの哀帝となる司馬丕である。祖父は明帝にあたり、明帝の子孫で東晋の帝位に就いた最後の人物でもある。

咸康8年(342年)に東海王に封じられた。成帝は同年に重い病にかかり、庾冰の勧めで帝位は成帝の弟の康帝に譲られ、康帝が司馬奕を東海王に封じたとされる。永和8年(352年)に散騎常侍・鎮軍将軍となり、升平4年(360年)に車騎将軍を拝命し、翌年には琅邪王に改封された。隆和元年(362年)には侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司となった。東海王であったころ、庾冰の娘の庾道憐を妃に迎えている。

興寧3年(365年)、同母兄の哀帝が子のないまま崩御すると、褚太后の詔により即位し、妃を皇后に立てた。しかし政治の実権は穆帝の代から桓温が握り続け、大叔父の会稽王司馬昱も思うように決定できなかった。即位の直後には洛陽が前燕の慕容恪に奪われ、哀帝の死で援軍が送れなかったためとされる。同年末には梁州刺史の司馬勲が反乱を起こしたが、366年夏に敗れて処刑された。同年7月に皇后の庾氏が没し、以後、廃帝は在位中に皇后を立てなかった。

太和4年(369年)、桓温は洛陽奪回を掲げて北伐軍を興したが、前燕の名将慕容垂に枋頭で大敗し、朝廷での勢力に陰りが見えた。簒奪の野心を抱く桓温は、失脚の危機を挽回するため、腹心の郗超の献策を採った。廃帝には大きな過失がなかったため、桓温は帝が不妊になったという噂を流し、美人の田氏・孟氏が産んだ皇子は寵愛を受けた男たちの子だとまで言いふらしたという。民間には、皇子の誕生を皮肉る歌も出回った。鳳凰が一匹の子を産んだと喜びながら、実は小馬と呼ぶべきだと歌う内容で、曲調は美しいが、帝が子を産めず、寵童や内侍の子を皇子にしたことを風刺したものだったという。同じころの別の民謡は、皇太子でもないのに甘露を得られるはずがないと歌った。太和6年(371年)、桓温は入朝して褚太后に圧力をかけ、真偽を確かめない太后の同意のもと、廃帝は廃されて海西公に降格された。帝位は大叔父の会稽王司馬昱が継いだ。桓温は廃帝をさらに庶人にまで落とそうとしたが、褚太后が抵抗し、降格は海西公にとどまったという。桓温は田氏・孟氏も処刑し、有力な殷氏・庾氏の一族も殺戮したとされる。3人の皇子はみな扼殺され、翌日に南方から甘露を飲んだ馬が献上されたと伝えられる。

咸安2年(372年)、海西公は呉県の西柴里に移された。桓温は復位を図ることを警戒し、厳重な監視下に置いたという。同年11月、妖賊の盧悚が殿中監の許龍を居所に遣わし、褚太后の密詔と称して復位を勧めた。海西公は従おうとしたが、保母の諫言で思いとどまり、許龍を叱って追い返した。後に、太后が本当に復位を望むなら近衛兵を送って迎えるはずで、詔は存在しないと悟ったともいわれ、盧悚の反乱は支持を得られず崩れた。以後は死を恐れ続け、政治的な野心がないことを桓温に示すため、才を隠して酒や音楽、女色に耽り、朝廷の警戒をそらして、天寿を全うした。太元11年(386年)、45歳で薨去した。一説には酒毒で亡くなったという。

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