伝記
フラウィウス・グラティアヌスは、西ローマ帝国を治めたローマ皇帝である。359年4月18日か5月23日に生まれ、383年8月25日に没した。在位は367年から383年で、異母弟にウァレンティニアヌス2世がいる。
ウァレンティニアヌス1世の長男として、パンノニア第二州の州都シルミウムに生まれた。名は祖父グラティアヌスにちなむ。母は父の最初の妻マリナ・セウェラである。367年、八歳で西方の正帝の称号を受けた。この年、父に従ってガリアでアラマンニ人と戦う遠征に加わったが、父が重い病にかかり、宮廷と軍が別々の後継者を立てようとした。父は回復すると、慣例の副帝を経ずに彼を共同皇帝とした。少年は軍事に向かず、教養と学問を好んだと、アンミアヌスは記している。父が教育を委ねた文人のアウソニウスは、彼を「黄金の心」の持ち主と評した。詩才があり、乗馬や狩りにも優れたが、成長とともに狩りや円形闘技場の見物に時間を費やすようになったという。374年、十五歳のとき、コンスタンティウス2世の唯一の実子コンスタンティアと結婚した。
375年に父が死ぬと、イリュリクムの軍団が不穏な動きを見せた。当時の彼はまだ十六歳で、拠点はトリーアだったため、フランク人の老臣メロバウデスがシルミウムで異母弟ウァレンティニアヌス2世を共同皇帝に擁立し、軍団に忠誠を誓わせて事態を収めた。グラティアヌスは不満もあったようだが、この処置を受け入れた。376年ごろから東方は蛮族の蜂起に苦しみ、グラティアヌスは東帝ウァレンスを支援するため、メロバウデスやリコメル、バウト、アルボガストら重臣を東方へ派遣した。378年には、ラエティアに侵入したアラマンニ人を迎え撃ち、王を敗死させた。この戦勝はかえってウァレンスに焦りを与え、ウァレンスは同年のハドリアノポリスの戦いで戦死した。グラティアヌスはヒスパニアで隠遁していたテオドシウスを呼び寄せ、東方担当の共同皇帝に任命し、その父の名誉回復を約束したという。東方の軍団は壊滅状態で、当面テオドシウスを支えたのは、グラティアヌスが派遣したフランク人の将軍たちだった。
はじめは教師アウソニウスらの助言に従い、異教に寛容な令を出して、父の穏健な宗教政策を踏襲した。しかし378年に立ち寄ったミラノで司教アンブロジウスの説得を受け、方針を一転させた。379年初頭にはローマ皇帝として初めて、ポンティフェクス・マクシムスの衣装を着るのを拒み、同年夏には寛容令を撤回した。382年にはローマの神官団やウェスタ神殿の巫女の権利を奪い、元老院から女神ウィクトリアの像を撤去させた。381年からは拠点をミラノに移し、ますますアンブロジウスの影響を受けた。
宗教心が深まる一方で、伝統宗教を信じる人々の多い元老院や軍隊からの支持は急速に失われた。異民族の兵を重んじたことも恨みを買った。383年、ブリタンニアの軍団がマグヌス・マクシムスを皇帝と宣言してガリアへ進軍すると、迎え撃ったが敗走し、ルグドゥヌム(現在のリヨン)で殺害された。敗北にはメロバウデスの裏切りがあったとも言われるが、詳細は不明である。妻コンスタンティアは同年に亡くなり、後妻ラエタの存在が確認できる。コンスタンティアとの間に生まれた男子の消息は分からず、ラエタとの間に子はなかった。
同じ年に亡くなった人物
- 聖ウルスラ (383年没)
- コンスタンティア (383年没)
- アルダシール2世 (383年)
- ウルフィラ (383年没)
- ダルマチアのイサアク (383年)
同じ地域に関係する人物
- ジラール・デザルグ (1661年没)
- Pauline Jaricot (1862年没)
- エイレナイオス (202年没)
- Jean-Marie Degoutte (1938年没)
- Andre Buffiere (2014年没)