伝記
エチオピアのフルメンティは、四世紀にアクスム王国へキリスト教を伝えた聖人である。ゲエズ語ではフレムナトス、ギリシア語からはフルメンティオス、ラテン語からはフルメンティウスとも転写される。383年頃に没したとされ、エチオピアへの伝道者として東西の教会で広く崇敬されている。
シロフェニキア系のギリシア人としてティルスに生まれたという。316年頃、弟のエデシオスとともに、哲学者であった叔父メトロピオスの交易の旅に同行して紅海沿岸を航海した。途中で寄港した港で現地の勢力に船が襲われ、叔父と乗員は殺され、生き残った兄弟だけが捕らえられてアクスム王国の宮廷へ連れて行かれた。奴隷としてアクスム皇帝に売られたとも伝えられる。兄弟は教養があってギリシア語も解したため、王の目に留まり、信頼される役目を与えられた。王は亡くなる前に二人を自由の身としたが、幼い王子エザナの摂政となった王妃が、宮廷に残るよう頼んだ。王妃は幼い息子に代わって国を預かっていた。二人は王子の教育と、王子が成人するまでの国政の一部を任された。フルメンティはエザナの教師となったのである。幼い頃から宮廷の近くで育ち、皇帝の知己を得たともいわれる。二人が宮廷で築いた信頼関係は、のちにアクスムをはじめ北東アフリカでキリスト教が広まるうえで決定的に重要であった。フルメンティは宗教指導者としてだけでなく、王子の教育や行政の協力者としても記憶されている。
この間、兄弟は王国を訪れていたキリスト教徒の商人たちと接触し、信仰を人前で行うよう励ましたという。フルメンティは祈りのための小さな礼拝所の建設を進め、土地の習慣をわきまえた外交的な振る舞いによって、在来の信仰と衝突せずにキリスト教の要素を持ち込んだとされる。宮廷の若い貴族たちにもキリスト教の教えを授け、そのなかには後に王となるエザナも含まれていた。この教育は、のちにエザナがキリスト教を王国の公式の宗教として採用する決断につながったとされ、国家の宗教としての採用としては最も早い例の一つになったという。信徒の共同体にはアレクサンドリアの教会へ通じる組織やつながりが生まれ、エチオピアに独自の、土地の文化と溶け合ったキリスト教が育つ土台になったといわれる。
エザナが成人して王位に就くと、エデシオスはティルスに帰り、そこで司祭に叙階された。フルメンティは宣教を固めるための支援を求めてアレクサンドリアに赴き、総主教アタナシオスに会った。この帰郷は326年のこととされ、皇帝の許可を得た一時帰郷の途上であったともいう。アタナシオスから主教に叙聖されたフルメンティはアビシニアに戻り、アクスム皇帝に洗礼を授けたのをはじめ、多くのエチオピア人に伝道し、多くの聖堂を建てた。エザナ王は、のちにキリスト教を国の宗教とする人物である。
人々は彼を「我らの父」「平和の父」と呼んだ。新約聖書を現地の言葉に最初に訳したのはフルメンティだとも伝えられる。アリウス派とアタナシオス派の論争では、アタナシオス派が主張するホモウシオスの立場を支持した。アレクサンドリアの教会との結びつきを通じて、アクスムはコプト教会の正統信仰に連なることになり、のちのアリウス派などの影響に対しても、その立場が保たれたといわれる。記念日は教会ごとに異なり、コプト正教会では12月18日、正教会では11月30日、カトリック教会では10月27日とされている。
同じ年に亡くなった人物
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- フェストゥス (380年没)
- ユリウス・フィルミクス・マテルヌス (380年(推定))
- アエリウス・ドナトゥス (380年)
- サムドラグプタ (380年)
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- Yaqob Zera (1693年没)
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