伝記
ルシアン・フロイドは、1922年12月8日にドイツのベルリンで生まれたイギリスの画家である。父エルンストは建築家で、精神分析医ジークムント・フロイトの四男にあたり、母ルーシーはドイツ系ユダヤ人であった。三人兄弟の次男で、兄にステファン・ガブリエルがおり、弟は放送人・作家・政治家となるクレメントである。名の「ルシアン」は、母が古代の著述家サモサタのルキアノスにちなんで付けたという。
1933年、ナチズムの台頭を避けて家族とともにロンドンのセント・ジョンズ・ウッドに移った。デヴォン州のダーティントン・ホール校に学び、のちにブライアンストン校に入ったが、素行の悪さから1年ほどで退学になった。1939年にイギリス市民権を得て、姓も英語読みの「フロイド」に改めた。同じ年から1942年まで画家セドリック・モリスの絵画学校で学んだ。学校は1940年にサフォーク州ハドリー近郊の家に移っている。そのほか、セントラル美術学校やゴールドスミス・カレッジにも通った。1941年には商船の船員として大西洋の護送船団に加わったが、1942年に傷病で除隊している。1943年には詩集『ガラスの塔』の挿絵を依頼され、翌1944年に刊行された。同じ1944年、ルフェーヴル画廊で初めての個展を開いた。
初期の作品は、人や植物、動物が風変わりな形で隣り合うシュルレアリスムを連想させるもので、ごく小さな画面に絵具を薄く塗り、輪郭を細かく描いた。1946年の自画像や、最初の妻キティ・ガーマンを描いた大きな目の肖像群は、細い貂(てん)の毛の筆で描かれ、初期ネーデルラント絵画を思わせると評される。キティはジェイコブ・エプスタインの娘である。1946年夏にはパリを経てギリシャに赴き、1949年から1954年までスレード美術学校の客員講師を務めた。1950年代初めにはダブリンをたびたび訪れ、画家パトリック・スウィフトのアトリエを共用した。
1950年代からは、肖像、とくにヌードを描くことにほぼ専念し、半ばには太い豚毛の筆を使って、肌の質感と色を追う、より自由で厚塗りの画風に移った。立って描く習慣は老年まで続き、のちには高い椅子に座って制作した。画面に登場するのは、床やベッドに座り、あるいは横たわる人物で、多くは家族、友人、仲間の画家、恋人、子供といった身近な人々である。フランク・アウアーバック、フランシス・ベーコン、デイヴィッド・ホックニーもモデルになった。フロイドは、のちに画家キタイが「ロンドン派」と呼んだ具象画家たちの一人で、ベーコンやアウアーバックもその仲間に数えられる。この一派は、抽象絵画が盛んだった時期に、具象の画風を貫いた。ロンドン以外での最初の展覧会は、友人の画家ジョン・ウィルソン・マクラッケンの手配で1972年にハートリプールの美術館で開かれた。モデルには長時間のポーズを求めたことで知られ、私生活では極めて閉鎖的で慎重な人物だったという。
2005年には、ケイト・モスを描いたヌード肖像画が390万ポンドで落札されて話題になった。2008年5月には『眠る職業安定所の管理職員』が3360万ドルで落札され、存命の画家の作品として世界最高額を記録した。2011年7月20日、ロンドンの自宅で亡くなった。88歳であった。
同じ年に亡くなった人物
- Robert Pitts (2011年没)
- ヴァルテル・ボナッティ (2011年没)
- ジョン・M・ラウンジ (2011年没)
- マーガレット・フィールド (2011年没)
- ジョン・シャリカシュヴィリ (2011年没)
同じ地域に関係する人物
- ニコラス・ロウ (1718年没)
- チャールズ・コーニック (1851年没)
- フィリップ・ストーン (2003年没)
- ウィリアム・ダンピア (1715年没)
- ジョージ・オーウェル (1950年没)