HISTORICAL PERSON · 1950年没

ジョージ・オーウェル

イギリスの作家・ジャーナリスト。スペイン内戦に義勇兵として参加し、『カタロニア讃歌』『動物農場』『1984年』を著した。

生涯
1950年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
インド(モティハリ)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ジョージ・オーウェルは、本名をエリック・アーサー・ブレアといい、1903年にイギリス統治下のインドのモチハリで生まれた作家、ジャーナリストである。父リチャードはインド高等文官としてアヘンの栽培と販売に携わり、母アイダはビルマで育った。エリックは1歳のとき母とともにイギリスへ戻り、1907年に父と短く再会するまで顔を見ることがなかった。姉マージョリー、妹アヴリルと父不在の家庭で育ち、5歳でヘンリーの小さな聖公会の学校に入り、教師の高い評価と校長の推薦、学費半額の奨学金を得て、イーストボーンの進学校へ進んだ。その学校生活は辛いものだったらしく、のちにエッセイで皮肉を込めて綴っている。1917年から1921年まではウェリントン校とイートン校で奨学金つきで学んだ。

1922年にイギリスを離れ、ビルマのマンダレーでインド警察の訓練所に入り、約5年間各地で勤務した。しかし帝国主義の片棒を担ぐ警官の仕事を激しく嫌い、1927年の休暇で帰国すると辞表を出し、二度とビルマへ戻らなかった。この体験は1934年の小説『ビルマの日々』や、短編『象を撃つ』に生かされている。その後は最底辺の暮らしを書こうと考え、1928年から1929年にパリで皿洗いなどをして暮らし、1930年から1931年にはロンドンで浮浪者に交じって放浪した。この経験から1933年に最初の著作『パリ・ロンドンどん底生活』が生まれた。1936年6月に結婚し、同年の工業地帯の取材をもとに1937年に『ウィガン波止場への道』を刊行している。

1936年にスペインを訪れたオーウェルは、バルセロナの革命的な状況に感動し、1937年初頭にマルクス主義統一労働者党の民兵に加わって、伍長としてアラゴン戦線へ赴いた。兵士たちの勇敢さに感銘を受けた一方、ソ連の援助を受けた共産党側の行いには義憤を抱いた。5月には前線で咽喉に貫通銃創を負い、かろうじて致命傷を免れた。バルセロナに戻ると、党への弾圧が始まっていたため、同年6月にフランスへ逃れた。この経験を描いた『カタロニア讃歌』は1938年に刊行されたが、存命中は初版1500部のうち900部が売れたにとどまったという。療養を兼ねて渡ったモロッコでは、マラケシュで現地の人々の絶対的な貧困を目にし、植民地支配の不当性をエッセイで論じた。

第二次世界大戦が始まると陸軍に志願したが断られ、ホーム・ガードで軍曹を務めた。1941年にBBCに入り、東南アジア向けの宣伝番組を制作したのち、1943年11月に退職して週刊紙『トリビューン』の文芸担当編集長となり、コラムの連載を1947年4月まで80回続けた。1944年には生後10か月の男の子を養子に迎えている。1945年に戦場特派員としてドイツを取材中、妻アイリーンが手術中の事故で急死し、報せを受けて帰国した。同年に発表した寓話小説『動物農場』で、初めて世俗的な名声と莫大な収入を得た。

1947年に結核を患い、スコットランドの孤島ジュラの農場に引きこもって『1984年』を執筆したが、湿気の強い土地は治療に向かず、本土の病院で9か月入院したのち、再びジュラへ戻って積極的な治療は拒んだ。1949年に『1984年』を書き上げ、同年10月にロンドンの病院へ移り、病室で再婚の式を挙げた。1950年1月21日、肺動脈破裂による大量の吐血のため、46歳で世を去った。『1984年』はのちに英語で書かれた20世紀の小説のベスト100などに選ばれている。

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