HISTORICAL PERSON · 1715年没

ウィリアム・ダンピア

イングランドの私掠船長・作家・博物学観察者。世界周航を3回成し遂げた最初の人物で、オーストラリアとニューギニアを探検した最初のイングランド人。ローバック号でダンピア海峡を発見し、探検記を出版した。

生涯
1715年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(イースト・コーカー)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ウィリアム・ダンピアは、1651年にサマセット州イーストコーカーで生まれ、1715年3月に亡くなったイングランドの私掠船長であり、船長、作家、博物学の観察者である。ニューホラント(オーストラリア)とニューギニアを探検した最初のイングランド人で、世界周航を3回成し遂げた最初の人物とされる。16歳で船乗りになり、第三次英蘭戦争に従軍して、1673年のスホーネヴェルト海戦を戦った。1674年にはジャマイカで農園の支配人になったが、すぐに海へ戻った。

1670年代には、中米のスペイン領を荒らし回るバッカニアの乗組員となり、カンペチェ湾を2度訪れた。1679年にはダリエン地峡の太平洋岸でのスペイン船の拿捕に加わった。1683年に私掠船長クックと出会ったことが、前人未踏の業績への道を決めた。クックはホーン岬を回って太平洋に入り、1年にわたってペルー、ガラパゴス諸島、メキシコのスペイン領を略奪した。クックがメキシコで死ぬと、ダンピアはチャールズ・スワンの船に移り、1686年3月31日に太平洋を越えて東インドを襲うことにした。海賊たちはマニラや中国、香料諸島を経てニューホラントに達した。

1688年初めには、オーストラリア北西岸のキング・サウンド近くに上陸した。船を修理する間に、現地の動植物を記録した。その年、彼は船員2名とともにニコバル諸島に置き去りにされたが、小舟を造ってスマトラ島のアチンにたどり着いた。さらなる冒険の末に、1691年に喜望峰を回ってイングランドへ帰還した。無一文だったが、貴重な手記を持ち帰っていた。連れてきたジェオリー王子と呼ばれる全身に珍しい刺青のある人物は、金に困って見世物として売り払ったという。1697年に『最新世界周航記』として出版された手記は海軍省の目に留まり、1699年にローバック号の指揮権を与えられて、オーストラリアとニューギニアの探検に向かった。

ローバック号は1699年1月14日に出航し、7月26日にオーストラリア西部のシャーク湾に到達した。水を求めて沿岸を進んだが得られず、ティモール島へ向かった。12月3日にはニューギニアを見つけ、東進してニュー・ブリテン島などをたどり、ビスマルク諸島とニューギニアの間にあるダンピア海峡を発見した。1701年2月21日、帰途でアセンション島近くで難破し、乗組員は5週間島で過ごして、東インド会社の船に救助された。書類の多くは失われたが、海岸線や貿易風、潮流を記した多くの海図は守った。帰国後は、乗組員のジョージ・フィッシャーをブラジルで投獄したことが虐待にあたるとして軍法会議にかけられ、有罪とされて報酬を減らされ、海軍を解雇された。

その後はスペイン継承戦争のなかで私掠活動に戻り、政府船セント・ジョージ号の指揮官となった。この遠征で最も注目されるのは、航海長アレキサンダー・セルカークをめぐる出来事である。僚船シンク・ポーツ号の船長との口論の末、セルカークは1704年10月にチリ沖の無人島に置き去りにされ、4年4か月を過ごした。この体験は『ロビンソン・クルーソー』の基になったとされる。1708年には私掠船長ウッズ・ロジャーズのデューク号で航海長を務め、1709年2月2日にセルカークを救助した。遠征の利益は約20万ポンドにのぼったが、ダンピアは分け前を受け取る前に、1715年にロンドンで亡くなった。博物学の観察はダーウィンやフンボルトに、航海術はクックやネルソンに影響を与えたといわれる。

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