HISTORICAL PERSON · 2011年没

ウサーマ・ビン・ラーディン

サウジアラビア出身の活動家。国際テロ組織アルカーイダを設立して指導者となり、アメリカ同時多発テロ事件などを首謀した。2011年、米軍の作戦により殺害された。

生涯
2011年没
死亡地
パキスタン共和国(カイバル・パクトゥンクワ州 / アボタバードのウサーマ・ビン・ラーディンの屋敷)
出生地
サウジアラビア王国(リヤド)
出典
世界地図
パキスタン共和国(カイバル・パクトゥンクワ州)

伝記

ウサーマ・ビン・ラーディンは1957年3月10日、サウジアラビアのリヤドで生まれた。生年月日は、本人が1998年のインタビューで語ったものである。父は建設業で財を成したイエメン出身のムハンマド・ビン・ラーディンで、22回結婚して54人の子をもうけ、ウサーマはその17番目の子にあたる。母は父の10番目の妻でシリア出身のアリア・ガーネムだった。父は誕生の直後に母と離婚したため、幼いウサーマは実父と離れ、母の再婚相手との間に生まれた異父弟妹とともに育った。一族は50億ドル以上の資本を持つ富豪で、そのうち2億5000万ドル以上が彼に分配されていたという。

敬虔なスンナ派ムスリムとして育ち、1968年から1976年にかけてジッダの世俗的なエリート校で学んだのち、キング・アブドゥルアズィーズ大学で経済学と経営学を学んだ。学位については、1979年に土木工学、1981年に行政学を取得したとする報告がある一方、取得前に退学したとする報告もあり、はっきりしない。大学時代にはムスリム同胞団に加わってサイイド・クトゥブの思想に引かれ、教員だったアブドゥッラー・アッザームを師と仰いだ。厳格なサラフィー主義のため音楽や映画には不寛容だったが、競走馬に関心を寄せ、サッカーを好んでプレーしたとされる。

1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、パキスタンやアフガニスタンを初めて訪れ、抵抗するムジャーヒディーンの支援を始めた。当初は募金が中心で、湾岸諸国から資金や建設機械を提供していたが、やがてペシャーワルで恩師のアッザームと合流し、1984年までに外国から新兵を集めて送り出す組織を作った。1986年以降は活動の拠点をアフガニスタン国内に移し、東部の村ジャジ近郊に基地を築いて数十人のアラブ人を指揮し、自らも兵士として戦った。1987年の戦闘はアラブ系の主要メディアで華々しく報じられ、彼はアラブ世界の一部で英雄視されるようになった。1988年には新組織「アルカーイダ」を立ち上げ、ソ連軍の撤退後も別の地域でジハードを続けることを目的としたとされる。

1989年にサウジアラビアへ帰国したが、体制に反抗的な姿勢を示したため当局に警戒された。1990年にイラク軍がクウェートに侵攻すると、自らの軍団でサウジアラビアを守る案を王家に提案したが拒否され、アメリカ軍の駐留が決まった。異教徒の軍が聖地を抱える国に入ることに憤った彼は、王家を「背教者」と糾弾して反米活動に傾いた。1991年に国外追放となり、アフガニスタンを経て1992年までにスーダンへ移った。1994年にはサウジアラビア国籍を剥奪され、一族とも関係を断たれた。1996年にスーダンを追われてアフガニスタンに戻り、ターリバーンの庇護を受けて、同年8月にアメリカへの「ジハード」を宣言した。1998年2月にはアイマン・ザワーヒリーとともに新たな布告を発し、アメリカとその同盟国の国民を殺害することが全ムスリムの義務だと宣言した。

のちにアメリカ同時多発テロ事件をはじめとする数々のテロ事件の首謀者として知られ、連邦捜査局の最重要指名手配者の一人となった。2011年5月2日、パキスタンのアボッターバードでアメリカ軍の特殊部隊の作戦によって殺害された。

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