HISTORICAL PERSON · 2011年没

浜崎昌弘

大阪府出身のサッカー選手でGK。俊敏な動きと正確なキックを持ち味に八幡製鉄などで活躍し、1968年メキシコシティ五輪の日本代表に選ばれた。

生涯
2011年没
死亡地
日本(福岡県 / 北九州市)
出生地
日本(大阪府)
出典
世界地図
日本(福岡県)

伝記

浜崎昌弘は1940年3月14日、大阪府に生まれた。大阪府立勝山高等学校で学んだ後、明治大学へ進み、さらに八幡製鉄サッカー部に入部した。父の浜崎都雄は関西蹴球協会と大阪蹴球協会で常任理事を務めており、浜崎はサッカーに関わる環境の中で競技者としての歩みを始めたといえる。ただし、幼少期の競技生活や、選手を志した具体的な動機については、出典本文に記録されていない。

八幡製鉄ではゴールキーパーを務め、俊敏な動きと正確なキックを持ち味として活躍した。ゴールを守る反応の速さと、守備から攻撃へつなぐキックの正確さを備えた選手として、国内トップリーグにあたる日本サッカーリーグで出場を重ねた。所属は八幡製鉄から新日本製鐵へと続き、1972年まで在籍した記録がある。個人成績では、日本サッカーリーグ1部で通算100試合に出場しており、国内で長く戦い続けたことが数字にも表れている。

浜崎の転機となったのは、日本代表に選ばれ、国際舞台へ進出したことだった。出典には、1960年9月のヨーロッパ遠征で代表デビューしたと記され、同年9月9日のカイラート戦が日本代表初出場として挙げられている。その後、1966年12月16日のバンコクでのシンガポール代表戦が国際Aマッチ初出場とされ、国際Aマッチ通算成績は2試合、得点は0だった。1966年アジア競技大会にも出場しており、国内クラブで培った技術を代表活動の場でも示した。

最大の成果は、1968年メキシコシティーオリンピックの日本代表メンバーに選出され、サッカーで銅メダルを獲得したことである。浜崎個人の出場試合数や大会中の役割の詳細は本文からは分からないが、代表選手としてこの大会に加わり、チームの銅メダル獲得に名を連ねた。この結果によって、浜崎の歩みは八幡製鉄での国内リーグ100試合という記録にとどまらず、日本代表がオリンピックで残した成果の一部として記録されることになった。

その後の浜崎について、1972年まで新日本製鐵のサッカー部に所属していたこと以外の詳しい晩年の活動は、出典本文には示されていない。2011年10月10日、腸内静脈瘤破裂のため北九州市の病院で死去し、71歳だった。彼の生涯は、俊敏さとキックの正確さを備えたゴールキーパーとして国内で出場を重ね、代表としてアジア大会とオリンピックを経験し、1968年の銅メダルというチームの成果に結びついたものとして、リーグ記録と代表歴の中に残されている。

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