HISTORICAL PERSON · 2011年没

アゴタ・クリストフ

ハンガリー出身の作家。1956年のハンガリー動乱でスイスに移り、主にフランス語で執筆した。母語への思い入れと民族意識は最後まで強かった。

生涯
2011年没
死亡地
スイス連邦(ヌーシャテル州 / ヌーシャテル)
出生地
ハンガリー(Csikvand)
出典
世界地図
スイス連邦(ヌーシャテル州)

伝記

アゴタ・クリストフは、1935年10月30日にハンガリー西部のチクヴァーンド村で生まれた作家である。ハンガリー語の本来の名はクリシュトーフ・アーゴタで姓が先にくるが、スイスに住んでフランス語で書いたため、作家としてはフランス語風の名で知られ、日本でもこの名で紹介されている。父カールマーンは村の小学校の教師、母アントーニアは家政を教える教師であった。1944年、9歳のころに一家はケーセグ市へ移り、そこで父は政治犯として逮捕・投獄されたと伝えられる。ケーセグには高等女学校がなかったため、ソンバトヘイの寄宿制の高等学校に進み、このころから詩を作り始めた。1954年に理科系の学力認定試験に合格して卒業し、直後に高校時代の歴史の教師と結婚した。

1956年のハンガリー動乱でソ連軍が蜂起を鎮圧すると、21歳のクリストフは、夫と生後4か月の娘を連れてオーストリアを経由し、スイスのフランス語圏にあるヌーシャテルへ逃れた。当初は時計工場で働き、のちに店員や歯科助手も務めた。働きながら夜に詩を書き、パリで刊行されたハンガリー語の文芸誌に詩を発表したが、多くの作品は出版されなかった。生活の足場を得るには現地の言葉で作品を発表するしかないと考えを改め、フランス語での執筆を始める。もともと劇作家として出発し、のちに戯曲集も出している。

1986年、フランス語で書いた小説『悪童日記』でフランス語圏の文壇に登場し、この作品でヨーロッパ文学賞の一つを受けた。戦時下の田舎町で成長し自立していく双子の少年たちを、一人称複数の「ぼくら」で語るこの小説は、世界で40以上の言語に翻訳された。成人してから身につけたフランス語で書くために文章にはぎこちなさがあるが、それがかえって物事を簡潔に伝える独特の文体になったと評される。続く『ふたりの証拠』(1988年)と『第三の嘘』(1991年)で三部作を完成させ、『第三の嘘』は1992年にフランスの文学賞を受けた。のちにフランスでは、『悪童日記』を授業で読んだ中学校の若い教師が、保護者の訴えで警察に連行される事件も起きた。作品を猥褻とみなす訴えだったが、多くの人の支援で事件は早く不問に付された。そのほかの作品に、『昨日』(1995年)や『どちらでもいい』(2005年)がある。

作家になってからも、クリストフはフランス語を「敵性言語」と呼び続けた。自伝『文盲』には、フランス語を使い始めて30年以上、書き始めて20年以上たっても、辞書なしでは正しい文章が書けず、フランス語は母語を殺し続けていると記している。1956年に国を出たことで人生が必ずしも良くなったわけではない、ハンガリーで作家になる方が良かったと、インタビューで答えたこともある。国籍はハンガリーのものも持ち続け、出国の12年後には帰国も果たした。

2001年にゴットフリート・ケラー賞、2005年にシラー賞を受け、2008年にはオーストリア国家賞を受賞し、2011年にはハンガリーのコシュート賞も贈られた。2度離婚して3人の子の母となったが、家庭のことはほとんど語らなかった。2011年7月27日にヌーシャテルの自宅で75歳で亡くなり、遺灰は若い日を過ごしたケーセグに移された。

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