伝記
イザベル・ド・シャリエールは、1740年10月20日に生まれ、1805年12月27日に没した、オランダ貴族の娘に生まれた著述家であり、芸術の愛好家である。出生名はイザベラ・アグネタ・エリザベス・ファン・トゥイル・ファン・セロスケルケンで、若いころはベレ・ファン・ザイレン(ザイレンはオランダの貴族の家名)と呼ばれ、オランダでは今もこの呼び名が使われる。スイス人のシャルル=エマニュエル・ド・シャリエールと結婚して、シャリエール夫人と呼ばれた。人生の後半はスイスのヌーシャテルのコロンビエにある夫の家族の邸で暮らした。フランス革命の時代を生き、スイスへ亡命してきた多くのフランスの文化人と交流したことで知られる。
現在はユトレヒトの一部となっているザイレンの、オランダ貴族の家に生まれた。10歳のとき、フランス語を話す家庭教師とともに1年間スイスとフランスを旅し、フランス語に習熟した。両親の理解を得て、当時の女性としては幅の広い教育を受け、語学、文学、自然科学に及んだ。ラテン語、イタリア語、ドイツ語、英語を学び、音楽はイタリアの作曲家ニコロ・アントニオ・ジンガレッリに習った。
1763年、22歳のときに、匿名で風刺小説『貴族』をフランス語で発表した。30歳のころ、かつて兄弟の家庭教師を務めていたシャルル=エマニュエルと結婚した。夫の祖父で旅行作家として知られるムラルトが購入した、ヌーシャテルの邸に夫の両親や姉妹とともに住み、ジュネーヴやパリをしばしば訪れた。1784年から『ヌーシャテルからの手紙』をはじめとする多くの著作を世に出し、『ローザンヌから書かれた手紙』(1785年)とその続編『カリスト』(1787年)、『三人の女』(1795年)、『サント・アンヌ』(1799年)などが続いた。1793年には、3幕の喜劇『亡命者』と、亡命者の書類入れから見つかった手紙という体裁の作品を発表している。『サー・ウォルター・フィンチとその息子ウィリアム』は、没後の1806年に出版された。
1786年からは1年半以上をパリで過ごし、ハープシコードの曲の作曲と演奏にも多くの時間を割いた。女性作家アメリー・スアールの文学サロンで、文学者バンジャマン・コンスタンに会い、コンスタンに影響を与えた。また1789年から1790年にかけては、ルソーの『告白』の第2部を、ルソーの没後に出版することに貢献した。
同じ年に亡くなった人物
- フレゼリク・ア・ダンマーク (1753-1805) (1805年没)
- ソコナイ・ヴィテーズ・ミハーイ (1805年没)
- ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯) (1805年没)
- William Paley (1805年)
- アロイス1世 (1805年没)
同じ地域に関係する人物
- Prince Sabahaddin (1948年没)
- フリードリヒ・デュレンマット (1990年没)
- Charles Antenen (2000年没)
- Pierre Aubert (2016年没)
- エムリッシュ・ヴァッテル (1767年没)