HISTORICAL PERSON · 2009年没

ロベルト・エンケ

ドイツのサッカー選手でGK。故郷のイェーナで2部デビューし、ボルシア・メンヒェングラートバッハなどでプレーした。2009年に死去。

生涯
2009年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州 / ノイシュタット・アム・リューベンベルゲ)
出生地
ドイツ連邦共和国(イェーナ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州)

伝記

ロベルト・エンケは、1977年8月24日に東ドイツのイェーナで生まれたサッカー選手で、ポジションはゴールキーパーである。祖父母の家の庭でボールを蹴り始め、はじめはフォワードだったが、やがてGKに転向して才能を示した。1985年に地元のFCカールツァイス・イェーナに加わり、17歳でプロ契約を結ぶと、1995年11月11日のハノーファー96戦で2部リーグにデビューした。フォーゲル監督の起用でこの月に3試合に出たが、その後は正GKが復帰して出番を失った。

1996年夏、ブンデスリーガのボルシア・メンヒェングラートバッハに移り、最初の2シーズンは下部リーグのU-23チームでプレーした。1998-99シーズンの開幕前に守護神ウーベ・カンプスが負傷したため、新監督に抜擢され、1998年8月15日のシャルケ04戦で3対0の完封デビューを飾ったが、すぐに控えへ降格した。クラブが2部に落ちると、ユップ・ハインケス監督率いるポルトガルのベンフィカへ移った。エンケにはパニック発作の経験があり、契約直後には迷いも抱いたが、契約した以上は果たす義務があると考えたという。ベンフィカは3シーズンで監督が3度交代し、給料の遅配が起きるほど財政が苦しく、リーグ戦は史上最低の6位でタイトルもなかった。それでも好プレーを続け、アーセナルやアトレティコ・マドリード、マンチェスター・ユナイテッドから関心を寄せられた。

2002年6月、移籍金なしの3年契約でFCバルセロナに加入したが、在籍中は常に控えGKだった。デビュー戦のコパ・デル・レイでは格下のノベルダに敗れ、フランク・デ・ブールに批判された。リーガ・エスパニョーラには2003年3月2日のオサスナ戦に最後の20分だけ出場した。のちにエンケはバルセロナのGKを「欧州でもっとも難しいGKのポジション」と語っている。2003年夏に貸し出されたフェネルバフチェでは、8月10日のイスタンブールスポル戦に0対3で大敗した1試合だけで、観客からライターや空き瓶を投げ付けられ、予定より早くスペインに戻った。2004年1月に2部のCDテネリフェへ貸し出されると、力強いプレーで称賛された。

2004年7月、移籍金なしの2年契約でハノーファー96に加わり、正GKに定着した。キッカー誌の最優秀GKに選ばれ、2007-08シーズンからはチームメイトに選ばれて主将を務めた。2008-09シーズンは所属クラブが11位だったにもかかわらず、再びキッカー誌のベストイレブンに入り、クラブでの通算出場は180試合に達した。ドイツ代表には2007年3月28日のデンマーク戦でデビューし、欧州選手権2008では控えとして準優勝に貢献した。レーマンの代表引退後は正GK候補となり、通算出場は8試合だった。

私生活では、娘を授かったが、娘は2006年9月17日に心臓病のため2歳で亡くなった。2009年5月には養女を迎え、妻とともに動物保護の活動にも携わった。2009年秋、カンピロバクター菌に感染したとしてチリ戦の招集を辞退したが、実際には出場できる精神状態になかったという。2009年11月10日、ハノーファー近郊の踏切で快速列車にはねられて死去した。32歳だった。警察は自殺と判断し、妻は6年間うつ病で通院していたことを明らかにした。11月15日の追悼式典には4万5000人が集まり、エンケは娘の墓の隣に埋葬された。ドイツ対チリの親善試合は中止となった。

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