伝記
クルト・ヨーゼフ・ヴァルトハイムは、1918年12月21日にウィーン近郊のヴェルデルン(現ザンクト・アンドレー=ヴェルデルン)で生まれたオーストリアの政治家、外交官である。国際連合の第4代事務総長(1972年から1981年)と、オーストリアの第6代大統領(1986年から1992年)を務めた。父はチェコ系の学校長で、その年にハプスブルク帝国が崩れる中で姓を「ヴァルトハイム」に改め、のちに郡の学校監督官になった。熱心なカトリックで、キリスト教社会党に所属し、尊敬される家庭人だった。ヴァルトハイムは3人きょうだいの長子で、背が高く、ギムナジウムでは語学に秀で、学校のオーケストラでヴァイオリンを弾いた。父は医学を勧めたが、血を見るのが苦手で、外交官を志した。
1936年に12か月の志願兵として陸軍の竜騎兵連隊に入り、1937年の秋に奨学金でウィーンの領事アカデミーに進んで、法律と外交を学び始めた。1938年のドイツによるオーストリア併合には家族とともに反対し、ウィーンで反対運動をして、オーストリアのナチ党員に襲われて負傷したという。併合後、父はゲシュタポに一時逮捕されて職を解かれ、彼の奨学金も取り消されたが、ラテン語とギリシャ語の家庭教師をして学業を続けた。その一方で、ナチ党の一部門である国家社会主義ドイツ学生同盟に入り、1938年11月18日には突撃隊の騎馬部隊に加わっている。1941年の初めに国防軍に召集され、東部戦線で分隊長を務めた。1944年、ウィーン大学で法学博士号を取得し、同年エリーザベト・リッチェルと結婚した。
戦後の1945年にオーストリア外務省に勤め、1948年からパリ駐在の公使、1956年から1960年までカナダ駐在大使を経て、1964年には国連のオーストリア代表となった。1968年から国民党所属の連邦外務大臣を務めたのち、1970年に国連に戻った。1971年の大統領選挙で落選するが、同年の国連事務総長の選出では、首相ブルーノ・クライスキーの推薦で立候補した。中国は第三世界出身の事務総長を主張して2回拒否権を使い、第3回投票では2位だったが、1位の候補者にソ連が拒否権を使い、中国が棄権したことで指名された。12月22日の総会で任命され、1972年1月にウ・タントの後任として就任した。1976年の再選の際は、中国が支持したメキシコの候補と争ったが、中国が拒否権を放棄して彼を支持した。1977年2月にはエジプトを訪れてサダト大統領らと会談し、中東和平の国際会議の開催を働きかけた。1981年の3期目への挑戦は、中国が記録的な16回も拒否権を行使したため断念し、ペレス・デ・クエヤルが後任となった。
1986年の大統領選挙では、国家社会主義ドイツ学生同盟や突撃隊に所属していた事実が判明し、アメリカやイギリスなどが当選に反対を表明した。しかしオーストリア国民はこれを内政干渉と反発し、彼は当選した。調査では、1943年にユーゴスラビアで残虐行為を行ったドイツ国防軍のE軍集団で通訳などを務めていたことがわかったが、戦争犯罪には無関係とされた。1992年の大統領選には立候補せず、在任中は多くの国で好ましからざる人物とされ、6年間ほとんど外国を公式訪問しなかったが、1990年には即位の礼で日本を訪れた。2007年6月14日、心不全のためウィーンの自宅で88歳で死去した。晩年は突撃隊にいた事実を認め、死後にユダヤ人社会への釈明文が残されていた。
同じ年に亡くなった人物
- ヨアヒム・ハンセン (2007年没)
- ムラー・ダードゥラー (2007年没)
- Sharda Mukherjee (2007年没)
- リチャード・ローティ (2007年没)
- ヒダシュ・フリジェシュ (2007年没)
同じ地域に関係する人物
- エーリヒ・パウージン (1997年没)
- ヨーゼフ・フランツ・フォン・ジャカン (1839年没)
- レオポルト4世 (オーストリア公) (1411年没)
- ヨハン・パリサ (1925年没)
- ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル (1777年没)