伝記
ヨハン・パリサは、1848年12月6日に生まれ、1925年5月2日に没した、オーストリアの天文学者である。生まれたのは、オーストリア領シレジアのトロッパウ(現在のチェコ共和国オパヴァ)である。1866年から1870年までウィーン大学で数学と天文学を学んだが、学位を得たのは1884年だった。それでも1870年には大学の天文台の助手となり、翌年にはジュネーヴの天文台に職を得た。数年後の1872年、二十四歳で、ポーラ(現在のクロアチアのプーラ)にあるオーストリア海軍天文台の台長になった。ここで1874年3月18日に最初の小惑星(136)オーストリアを発見し、ほかにも二十七個の小惑星と一つの彗星を発見した。ポーラでは、小さな六インチの屈折望遠鏡を研究に用いた。1880年まで、司令官の階級でポーラの天文台の台長を務めたのち、新設のウィーン天文台に移り、そこで肉眼による観測で九十四個の彗星を発見した。
小惑星の発見には、写真を使わず、すべて目で見て行った。1874年から1923年に、合計で122個を発見し、一晩で3個の小惑星を発見した日もある。主な発見に、(153)ヒルダ、(216)クレオパトラ、(243)イダ、(253)マティルド、(324)バンベルガ、地球近傍小惑星(719)アルベルトがある。1890年代にマックス・ヴォルフが写真を導入して発見の方法に革命を起こしたあとも、パリサは目視の観測を信じ続けた。最後の発見(1073)ゲリヴァラは、目視で見つかった最後の小惑星であり、パリサは目視での発見者としては史上最も成功した人物である。(253)マティルドは、直径約五十キロメートルのC型小惑星で、1997年6月に探査機ニア・シューメーカーが接近し、五百枚以上の画像を送った。
1883年には、フランスの遠征隊に加わってカロリン島で5月6日の日食を観測した。この遠征中、仮説上の惑星ヴァルカンの捜索の観測にも加わり、ウィーン自然史博物館のために昆虫の標本も集めた。この遠征を記念して、小惑星(235)カロリナと名付けた。1885年には、1886年8月の日食を観測する旅費を得るため、発見した小惑星の命名権を売ると申し出たが、売れたのはわずかで、行かなかったらしい。ヴォルフとともに、写真乾板による最初の星図であるパリサ=ヴォルフ星図を作り、1899年、1902年、1908年に刊行した。1908年には星の事典を出版し、赤緯マイナス一度からプラス十九度までの空を地図にした。同年ウィーン天文台の副台長となり、1919年に管理職を退いたが、観測する権利は保ち、1923年まで小惑星を発見し続けた。
家族では、1902年に二人目の妻アンナ・ベンダと結婚し、小惑星(734)ベンダは彼女にちなむ。母や娘にちなむ名も小惑星につけた。1876年にラランド賞を、1906年にフランス科学アカデミーのヴァルツ賞を受けた。小惑星(914)パリサナや月のクレーター・パリサは、彼にちなんで命名された。死後、彼が発見した小惑星には、最高の理想を守ること、忍耐、満ち足りた心という、彼にゆかりの資質にちなむ名がつけられた。小惑星(1152)パウォナは、パリサとヴォルフの協力を記念して、二人の名の頭文字をつなげたものである。
同じ年に亡くなった人物
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- ムーラーイ・アフマド・アル=ライスーニー (1925年没)
- ヴォイチェフ・ヒナイス (1925年没)
- Camille Decoppet (1925年没)
- ヴィトリド・ツェラスキー (1925年没)
同じ地域に関係する人物
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- ギュンター・アンダース (1992年没)
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- ヴィルヘルミーネ・フォン・ザーガン (1839年没)
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