HISTORICAL PERSON · 2006年没

ジェラルド・R・フォード

アメリカの第38代大統領。副大統領の辞任を受けて指名され副大統領に就き、翌1974年にニクソンの辞任で大統領に昇格。1976年の大統領選挙で敗れた。

生涯
2006年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ランチョ・ミラージュ)
出生地
アメリカ合衆国(オマハ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ジェラルド・ルドルフ・フォード・ジュニアは、1913年7月14日に生まれ、2006年12月26日に没したアメリカ合衆国の政治家である。共和党に属し、第38代大統領(在任1974年8月9日から1977年1月20日)を務めた。下院議員と第40代副大統領も歴任した。母の再婚に伴って改名するまでの名は、レズリー・リンチ・キング・ジュニアだった。選挙で選ばれて大統領にも副大統領にもなったことのない、唯一のアメリカ大統領でもある。

ネブラスカ州オマハで、レズリー・リンチ・キングとドロシー・エア・ガードナーの子として生まれた。生まれたころから父は母に暴力を振るうようになり、耐えかねた母は実家へ逃げ、さらに夫を訴えた。裁判所は父に有罪判決を言い渡し、2年後に両親の離婚が成立して、母はジェラルド・ルドルフ・フォードと再婚した。少年は養父の名を受けてジェラルド・ルドルフ・フォード・ジュニアと改名された。ミシガン州で育ち、ミシガン大学に入って、フットボール部で全米代表に選ばれるほどの選手になった。大学卒業後はプロチームから誘いを受けたが、イェール大学のロー・スクールに進み、弁護士の資格を取った。

真珠湾攻撃から5か月後の1942年4月、予備役少尉として海軍に入った。1943年春に軽空母モンテレーに着任し、運動管理官と砲術士官を務め、のちに補助航海士として、太平洋のほとんどの作戦に参加した。最も死に近づいたのは1944年12月のフィリピン海で、敵ではなく巨大な台風が原因だった。艦は損傷して任務を解かれ、彼は残りの戦争を陸上の任務で過ごし、1946年2月に少佐として除隊した。1949年から1973年まで24年間、下院議員を務め、1965年には共和党の若手に推されて院内総務選挙に挑んで勝った。ケネディ大統領の暗殺を調べるウォーレン委員会の委員にも選ばれ、委員会はオズワルドの単独犯行と結論づけた。1964年の公民権法と1965年の投票権法の成立でも大きな役割を果たした。

1973年、スピロ・アグニュー副大統領が辞任すると、10月10日にニクソン大統領から指名され、上下両院の承認を得て副大統領に就任した。憲法修正第25条が適用された初めての例である。ウォーターゲート事件でニクソンが辞職すると、大統領に昇格し、「私たちの長い悪夢は終わった」と述べた。同年9月8日、訴追前のニクソンに対して「前大統領は十分に苦しみを受けた」として特別恩赦を発表した。寛容さを示したが、裁判が行われなくなって事件の詳細は解明されないままとなり、歴史家は、この恩赦が1976年の大統領選挙での敗北につながったと見ている。1975年にはマヤグエース号事件で外交危機に直面し、乗組員の救出のために海兵隊を派遣したが、18名の隊員が命を落とした。同年9月には二度、暗殺未遂に遭ったが、いずれも防がれた。1974年11月に現職の大統領として初めて日本を公式に訪問し、昭和天皇と会見した。1976年2月19日には、日系人の強制収容を招いた大統領令9066号を廃止した。

1976年の大統領選挙では、共和党内でロナルド・レーガンの強い挑戦を受け、本選では10月の討論会での東ヨーロッパをめぐる発言が失策とされた。勝利した州の数ではカーターを上回ったが、得票率は48.0パーセント対50.1パーセントの僅差で敗れた。清廉で素朴な人柄で知られ、「私はフォードであって、リンカーンではない」と語った。1999年にクリントン大統領から自由勲章を与えられ、2006年12月26日に93歳で亡くなった。

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