伝記
ヨハネス・ラウは、1931年1月16日にドイツのヴッパータール・バルメンで、プロテスタントの家の5人兄弟の3男として生まれた政治家である。父は食料雑貨商を営むかたわら、プロテスタントの説教師を務めていた。学校を休みがちだったため、父の意見で1948年にギムナジウムを中退し、1949年にヴッパータールとケルンの出版会社で見習いとして働き始めた。1953年にヴィッテンの小さな出版社で編集者となり、のちに別の出版社に移って、1965年に社長になった。同じ1953年に、青年が自己と向き合い、イエスと出会う様子を描いた二つの短編小説を実名で発表したこともある。
初代の連邦内務大臣グスタフ・ハイネマンは、1952年にドイツの再軍備に抗議して辞任し、2年後には設立にも携わったキリスト教民主同盟を離党した。ラウはハイネマンが設立した政党に入り、ヴッパータールの地域代表となったが、この政党は1957年に解散し、ラウはハイネマンらとともにドイツ社会民主党に入党した。ハイネマンはのち第3代連邦大統領となり、その孫娘がラウの夫人になる。1958年に社会民主党の青年組織のヴッパータール地区代表となり、同年にノルトライン・ヴェストファーレン州の州議会選挙に初当選して、大統領に就く1999年までこの議席を保った。1969年から70年には故郷ヴッパータールの市長も務めた。1970年に州の科学研究相として初めて入閣し、在任中に州にはヴッパータール大学など多くの大学が新設された。1978年に州首相に就任し、党は1980年、1985年、1990年の州議会選挙で過半数を得て、とくに1985年は得票率52.1パーセントと、州の党の最高記録だった。
1982年と1994年には、それぞれ1年間、連邦参議院の議長を兼ねた。6代の党首のもとで副党首を務め、1987年の連邦議会選挙では首相候補として現職のヘルムート・コールに挑んで敗れた。1998年に20年に及んだ州首相の職を辞した。この間に州が他州に比べて後れを取ったのは、労働組合に配慮して炭鉱など旧来の産業構造を守りすぎたためだと保守政治家は批判したが、その原因をラウの施策に帰すのは不当とする意見もある。
1994年に党の連邦大統領候補となったが、ローマン・ヘルツォークに敗れた。1999年に再び候補となり、5月23日に二度目の決選投票で当選し、7月1日に第8代連邦大統領に就任した。演説では自分の言葉で国民に語りかけ、移民の受け入れや生命倫理、グローバリゼーションなどを取り上げた。2000年2月16日には、訪問先のイスラエルの国会で、ドイツの元首として初めてドイツ語で演説し、ホロコーストについて謝罪して許しを請うた。議員の一部は抗議して退場した。2002年6月には、ワールドカップの観戦を兼ねて日本を訪れ、決勝戦をシュレーダー首相らと観戦した。国家元首として76回の外遊を行った。
2003年9月に、翌年の連邦大統領を一期で退くと宣言し、2004年6月29日に退任式を行って、後任のホルスト・ケーラーに職を譲った。1982年にハイネマンの孫のクリスティナ・デリウスと結婚して、一男二女をもうけた。1995年から腹部大動脈瘤を自覚しつつ、職務への差し障りを恐れて手術を拒み、2000年7月に初めて手術を受けた。2006年1月27日、家族が見守る中で息を引き取り、2月6日にベルリン大聖堂で国葬が営まれた。
同じ年に亡くなった人物
- デズモンド・T・ドス (2006年没)
- プラムディヤ・アナンタ・トゥール (2006年没)
- エリザベス・ボールデン (2006年没)
- ニナ・フォン・シュタウフェンベルク (2006年没)
- カール・フーゴ・シュツルンツ (2006年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハネス・ポーピッツ (1945年没)
- クリスティアン・ゴットフリート・ケルナー (1831年没)
- グスタフ・ヘルツ (1975年没)
- ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハ (1845年没)
- アレクサンダー・フォン・フンボルト (1859年没)