伝記
アーサー・アッシャー・ミラーは、1915年10月17日にニューヨーク市マンハッタンのハーレムで生まれたアメリカ合衆国の劇作家である。ポーランド系のユダヤ人の家に生まれた三人きょうだいの二番目で、父イシドールは、ガリツィア(当時のオーストリア・ハンガリー帝国領、現在のポーランド)の出身で、400人を雇う婦人服の製造業を営んでいた。母オーガスタはニューヨーク生まれだった。妹に、のちに女優となるジョーン・コープランドがいた。家は豊かで、運転手を雇い、夏の別荘も持っていたが、1929年の株式市場の大暴落で、ほとんどすべてを失い、ブルックリンへ移った。少年のころのミラーは、家計を助けるため、毎朝登校前にパンを配達した。
1932年に高校を卒業した後、大学の学費を稼ぐため、いくつもの雑用の仕事に就いた。ミシガン大学に入学したが、成績が低く奨学金が受けられず、大恐慌で父の援助もなくなったため、2年ほど自動車工場で働いた。はじめはジャーナリズムを専攻して学生新聞に書いていたが、のちに英文学に移り、最初の戯曲『悪人ではない』を書いて、学内のホップウッド賞を受けた。この受賞は、劇作家として生きられるかもしれないと考えるきっかけとなった。劇作の演習で教授ケネス・ロウの指導を受け、生涯の友となった。1937年の『夜明けの名誉』でも、ホップウッド賞を受けている。1938年に卒業し、ニューディール政策の一つで劇場の仕事を生み出す連邦劇場計画に加わったが、議会が共産主義者の浸透を恐れて、1939年にこの計画を閉鎖した。ミラーはブルックリンの海軍造船所で働きながら、ラジオドラマを書き続けた。
高校時代にフットボールで左膝を痛めたため、第二次世界大戦では兵役を免除された。1944年にブロードウェイに初めて上演された『幸運な男』は、劇場協会の賞を受けたものの、酷評され、4回の上演で打ち切られた。1947年の『みんな我が子』はブロードウェイで当たり、初めてのトニー賞を受けて、劇作家としての評価が定まった。1948年にコネチカット州ロクスベリーに小さな仕事場を建て、1日足らずで『セールスマンの死』の第1幕を書き、6週間で残りを仕上げた。1949年2月10日、エリア・カザンの演出で初演され、ピュリッツァー賞とニューヨーク劇評家賞を受けた。平凡なセールスマンにアメリカの夢を託し、子供への過大な期待を抱いて自滅する姿を、現代の悲劇として描いた作品である。
1953年の『るつぼ』では、17世紀末の魔女狩りを素材に、マッカーシズムへの警鐘を鳴らし、トニー賞を受賞した。ほかに『橋からの眺め』(1955年)や『代価』(1968年)などがある。1956年には女優のマリリン・モンローと結婚して話題になったが、1961年に離婚し、1962年には写真家のインゲ・モラスと再婚した。娘のレベッカ・ミラーは女優、脚本家、映画監督となった。1965年から1969年まで国際ペンクラブの会長を務め、1983年には自らの演出で『セールスマンの死』を北京で上演した。2001年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した。2004年に上演した『絵を仕上げる』が最後の作品となった。2005年2月10日、癌による心不全のため、コネチカット州の自宅で89歳で没した。
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