HISTORICAL PERSON · 1896年没

ハリエット・ビーチャー・ストウ

アメリカの作家で、奴隷制廃止に尽力した。代表作『アンクル・トムの小屋』は奴隷の生活を描き、1851年から1852年に連載された。第2作『ドレッド』も奴隷制に反対する物語。

生涯
1896年没
死亡地
アメリカ合衆国(コネチカット州 / ハートフォード)
出生地
アメリカ合衆国(リッチフィールド)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(コネチカット州)

伝記

ハリエット・エリザベス・ビーチャー・ストウは、1811年6月14日にコネチカット州リッチフィールドで生まれ、ハートフォードで育ったアメリカ合衆国の作家であり、奴隷制の廃止に尽力した人物である。代表作『アンクル・トムの小屋』は奴隷の生活を描いた物語で、最初は1851年から1852年にかけて連載形式で発表された。第2作『ドレッド』も奴隷制に反対する物語である。男女同権が進んでいなかった20世紀後半までは、ストウ夫人とも呼ばれた。会衆派教会の説教者でカルヴァン主義者の父ライマン・ビーチャーと、母ロクサーナ・フートの11人の子の6番目に生まれた。母は信心深い女性で、ハリエットが5歳の1816年に亡くなった。姉キャサリンは教育者となり、兄弟にはのちに有名な説教師、奴隷制反対論者となるヘンリー・ウォード・ビーチャーらがいた。

1824年、13歳のころに、姉がハートフォードに開いた女子学校に入学し、当時の女性には珍しく、古典、語学、数学を中心とした伝統的な教育を受けた。1832年、21歳のとき、レーン神学校の初代校長となった父のもとへ移るため、オハイオ州シンシナティに移住した。そこで文学サロンの会員になり、のちに財務長官となるサーモン・チェイスらと交わった。シンシナティはオハイオ川の貿易と船運で栄え、逃亡奴隷やそれを追う賞金稼ぎ、運河や鉄道で働くアイルランド系移民が集まっていた。1829年にはアイルランド系の人々が黒人を襲う事件があり、彼女は被害に遭った黒人たちに会って、その経験を後の執筆に生かしたとされる。ここで奴隷制と地下鉄道についての直接的な知識を得て、奴隷を主人公にした物語を書く決意を固めたのである。1834年2月にレーン神学校で行われた奴隷制をめぐる討論会にも、ほとんど出席し、強い影響を受けた。

神学校の文学クラブで、聖書文学の教授で先妻に先立たれたカルヴィン・ストウと知り合い、1836年1月6日に結婚した。夫がボウディン大学の教授職を得たため、メイン州ブランズウィックに移住した。夫妻の間に7人の子が生まれたが、うち息子2人は幼少期に亡くなっている。1850年、逃亡奴隷法が成立すると、ストウ夫妻は奴隷制を熱心に批判し、逃亡奴隷を一時的に自宅にかくまった。ブランズウィックの教会での聖餐式の最中に、死にゆく奴隷の幻を見て、その物語を書く着想を得たと語っている。1850年3月、週刊の奴隷制反対誌の編集者に宛て、自由と人間性のために一言でも語れる女性は黙っていてはならないと書き送り、物語を書く計画を伝えた。逃亡奴隷法への抗議を意図して書かれた『アンクル・トムの小屋』は、40歳の1851年6月に新聞で連載が始まった。

単行本は発売当日に初版5000部のうち3000部が売れ、1年間で120版に達して35万部が売れるという空前の大ベストセラーとなった。この作品はワシントン・アーヴィングに匹敵する国際的名声をもたらし、アメリカ文学の存在をヨーロッパに改めて認識させる契機にもなった。南北戦争中の1862年にエイブラハム・リンカーンと会ったとき、リンカーンは「あなたのような小さなご婦人が、この大きな戦争を引き起こしたのですね」と挨拶したとされる。1863年に夫が大学での職を引退すると、ストウが筆一本で家族を養う責任を負った。『牧師の求婚』『オールドタウンの人々』など、ニューイングランドの風俗を描いた作品も書いた。1896年7月1日に85歳で亡くなり、マサチューセッツ州アンドーヴァーにあるフィリップス・アカデミーの敷地に埋葬されている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物