伝記
エンリケ・オマール・シボリは、1935年10月2日、アルゼンチンのブエノスアイレス州北部の町サン・ニコラス・デ・ロス・アロージョスに生まれたサッカー選手で、のちに指導者にもなった。ポジションはMFとFWである。家はイタリア北西部リグーリア州のラヴァーニャの出で、アルゼンチン出身のローマ教皇フランシスコとは、遠い親戚にあたるという。10代でアルゼンチンの名門リーベル・プレートと契約し、1952年にプロとなった。クラブの先輩には、アンヘル・ラブルーナやフェリックス・ロウスタウらがいた。1955年から続けてリーグ優勝に貢献し、1955年にはライバルのボカ・ジュニアーズに2対1で勝っている。イタリア系アルゼンチン人の監督レナト・チェザリーニの下で、広く知られるようになった。1956年にアルゼンチン代表にデビューし、1957年のコパ・アメリカで優勝して、大会の最優秀選手に選ばれた。
その1957年、当時の世界最高の移籍金でイタリアのユヴェントスに移った。この資金で、リーベル・プレートはエル・モヌメンタル競技場に新しい観客席を増築した。トリノでの紹介の場では、試合の前に、ボールを落とさずに競技場を4周してみせたという。リーグ戦の初試合でヴェローナに3対2で勝ち、初得点を挙げた。同時に加入したウェールズのジョン・チャールズや、経験豊富なジャンピエロ・ボニペルティとともに、「魔法の三重奏」と呼ばれる攻撃の3人組を作り、リーグとコッパ・イタリアを制した。1957年から1958年のシーズンには、クラブ10度目のスクデットを獲得した。最初のシーズンは32試合で22得点を挙げた。1958年から1959年のヨーロッパ・チャンピオンズカップの準々決勝では、ユヴェントスの選手として初めて欧州大会で得点を挙げ、その得点は開始2分に決めたものだった。
1959年から1960年のシーズンには、リーグ戦で27得点を挙げて得点王に輝いた。1960年から1961年の最終節では、インテルを相手に1人で7得点を決め、9対1の大勝をおさめた。この年、イタリア国籍を取得し、1962年のワールドカップにはイタリア代表として出場している(当時は複数の国の代表でプレーすることが可能だった)。1961年にはバロンドールを受賞し、イタリアの選手として初めて、この賞を手にした。ユヴェントスには8シーズン在籍し、スクデットを3回、コッパ・イタリアを3回獲得した。通算で167得点を挙げ、当時のクラブ歴代得点でボニペルティに次ぐ2位であった。1965年にチーム内の不和からナポリへ移り、4シーズンを過ごして、1966年にコッパ・デッレ・アルピを獲得し、1969年に引退した。
激しい気性の持ち主で、イタリア1部リーグの12シーズンに33回の退場処分を受けた。同じころにイタリアへ移ったアルゼンチン人のアントニオ・アンヘリージョ、ウンベルト・マスキオと3人で、「汚れた顔の天使たち」や「死のトリオ」と呼ばれた。引退後は、アルゼンチンのクラブで指揮を執り、1972年からはアルゼンチン代表の監督も務めて、初めてウバルド・フィジョールを代表に招集した。フィジョールはのちに、アルゼンチンを代表するゴールキーパーとなった。2004年には、ペレが選んだ偉大なサッカー選手100人に入った。2005年2月17日、膵臓の腫瘍により69歳で死去した。
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