HISTORICAL PERSON · 1615年没

マルグリット・ド・ヴァロワ

フランス王アンリ2世の娘で、後のアンリ4世の最初の王妃。婚礼の5日後にサン・バルテルミの虐殺が起き、デュマの小説『王妃マルゴ』の主人公となった。

生涯
1615年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(サン=ジェルマン=アン=レー)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

マルグリット・ド・ヴァロワは、フランス国王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの娘で、ナバラ国王のちフランス国王アンリ4世の最初の王妃である。フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の三人のフランス王の妹にあたり、「マルゴ王妃」と呼ばれた。アレクサンドル・デュマ・ペールの歴史小説『王妃マルゴ』のヒロインとしても知られる。

1553年5月14日、パリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レー城で、三女として生まれた。愛称のマルゴは兄たちが付けたとされる。没日は5月27日とも3月27日ともいわれる。幼いころは王室の育児室で姉たちとともに育てられ、のちにアンボワーズ城で兄アンリ、弟フランソワとともに育った。宮廷ではギリシア語やラテン語、イタリア語、スペイン語を学び、文学や哲学、聖書にも通じ、詩や乗馬、舞踏にも長けた。母や宮廷とともに行ったフランス巡幸(1564年から1566年)を通して、複雑な政治情勢を直接に見聞し、母から仲裁の術を学んだという。スペインの王子やポルトガル王などとの縁談が持ち上がったが、いずれも実らなかった。

1568年、軍を率いて宮廷を離れる兄のアンリ(のちのアンリ3世)は、15歳の妹に母への自分の利益の弁護を託した。彼女はこの役目を熱心に果たしたが、戻った兄は感謝を示さなかったと、彼女自身の回想録にはある。兄はまた、マルグリットとギーズ公アンリとの秘密の関係と結婚の計画を知った。母は娘を寝台から引きずり出し、母とシャルル9世は彼女を打ちすえ、ギーズ公を宮廷から遠ざけた。この出来事が兄との長い憎しみと、母との疎遠の始まりだったのかもしれない。

結婚を望んだのはギーズ公であったが、その望みは母によって打ち砕かれた。母は、カトリックとユグノーの対立を解消しようと、ユグノーの指導者であるナバラ女王ジャンヌ・ダルブレに、息子アンリ・ド・ブルボンとの縁談を持ちかけた。ジャンヌは婚礼の直前、1572年6月9日に急死した。毒殺の噂もあったが、婚礼は予定どおり同年8月18日にパリで行われた。その5日後の8月24日にサン・バルテルミの虐殺が起こり、婚礼のためにパリに集まったユグノーの人々が次々に殺され、夫となったナバラ国王アンリも幽閉された。1576年にアンリがパリの宮廷から脱走すると、マルグリットは兄アンリ3世のもとに残された。のちに夫のもとに送り届けられたが、それぞれが公然と愛人を抱え、夫婦仲は冷え切っていた。彼女は弟フランソワの側に立ち、兄王の深い嫌悪を招き、1585年にカトリック同盟の側についてオーヴェルニュで約20年に及ぶ流謫の生活を送った。

1589年にアンリ3世が暗殺され、ナバラ国王がアンリ4世として即位した。二人に子はなく、1599年に婚姻は解消された。アンリ4世はメディチ家のマリー・ド・メディシスと再婚したが、マルグリットは離婚後もアンリ4世一家と友人として良好な関係にあり、特にルイ13世をかわいがって館と領地を遺贈した。1605年に流謫から戻ると宮廷の文化生活で大きな役割を果たした。囚われの間に書いた回想録は、女性としては最初の試みとされる。派手な男性遍歴で名高く、兄弟との近親相姦の噂もあったが、これは王朝交代の史実をゆがめた中傷が生んだ神話だとする見方もある。弟フランソワの工作でフランドルに赴いた際には、総督ドン・フアン・デ・アウストリアを魅了し、彼は「男を救うより破滅させる類の美しさだ」と評したという。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物