伝記
ヨハネス・ド・サクロボスコ(ジョン・オブ・ホリウッド)は、1195年ごろに生まれ、1236年ごろに没したとされる、イギリス生まれの学者・天文学者である。没年は1244年とも1256年ともいわれる。パリ大学で数学と哲学を教え、中世の天文学の教科書『天球論』を著した。サクロボスコはラテン語で「聖なる森」を意味し、ハリファックスで生まれ、その地名のラテン語名を名にしたとされてきたが、異論もあり、ヨークシャーの生まれともいわれる。オックスフォード大学で学んだのち、スコットランドの修道院で誓願を立て、1220年ごろにパリに移り住んだ。1221年6月にパリ大学に迎えられ、まもなく四科の教授に選ばれた。このころ、中世を通じて最もよく使われた初等の算術書となる『アルゴリスムス』を書いた。続いて天文学の講義を文章にまとめ、1230年ごろ『天球論』として世に出した。たちまち数学者・天文学者としての評判を得た。後半生はあまり知られていない。パリで没し、サン・マチュラン修道院にある墓碑銘は、彼を暦の計算、すなわちエパクトの専門家として伝える。
『天球論』は、天動説の宇宙論の教科書で、プトレマイオスとアラビア人の注釈者たちの説を総合し、単純で筋の通った宇宙像を示した。そのためパリ大学に直ちに採用され、13世紀の半ばには西欧のすべての大学で使われた。何度も書き写され、天文学の本として最初に印刷されたのも1472年のフェラーラで、1647年までに65の版があり、うち30は揺籃期本である。こうして、13世紀の初めから17世紀の終わりまで、すべての学生の天文学の入門書だった。コペルニクスの『天球の回転』(1543年)が現れ、ケプラーの『新天文学』(1609年)が出たあとにも、ドイツ、フランス、オランダの学校で出版され、教えられていた。この人気は、古い権威に従う叙述であることと、複雑な理論を効果的に、分かりやすくまとめていることによる。小型で45ページの四つ折り判のため、教養のある旅行者の必携の書となり、ポルトガルの探検家たちの主な読み物だったことが、蔵書目録から分かる。ヤコブス・マルティヌスやエリー・ヴィネの注釈、ピエリオ・ヴァレリアーノの補遺など、多くの注釈がつくられた。
全体は、ごく短く新しい着想には乏しい四つの章に分かれる。第1章は、球の定義のあと、地球が球形であることを多くの証拠で述べ、アリストテレスの宇宙像に従って、宇宙の中で地球が動かない位置にあることを説く。第2章は、地球と天にある基準の円(黄道、赤道、獣帯、子午線、地平線など)を扱う。第3章は、地理上の各地での星の出と入り、黄道十二宮の位置、地帯ごとの昼夜の長さの違いを述べる。第4章は、プトレマイオスの惑星理論で、軌道と運動、日食と月食を説明する。
数学では、『記数方論』と『アルゴリスムス』が、インドとアラビアの算術法の教科書として使われた。暦学の著書『暦の算定』では、ユリウス暦に10日の狂いがあることを指摘し、228年に1日の調整が必要だと示した。ほかに『教会暦算』『四分儀』『用心書』も書いた。アラビア人の天文学の著作を使った、中世の最も早い博士の一人であり、イングランドに「数字」の使用を伝えたとみなされている。
同じ年に亡くなった人物
- マルグリット (ブロワ女伯) (1230年没)
- レオポルト6世 (オーストリア公) (1230年没)
- Samuel ibn Tibbon (1230年)
- ペロティヌス (1230年)
- アニェス・ド・フランス (東ローマ皇后) (1230年(推定))
同じ地域に関係する人物
- フランソワ・ブーシェ (1770年没)
- ギヨーム・デュピュイトラン (1835年没)
- イワン・モジューヒン (1939年没)
- ポール・タファネル (1908年没)
- ジョルジュ・ムートン (1838年没)