HISTORICAL PERSON · 2004年没

アフマド・カディロフ

チェチェンの政治家、軍人、聖職者。第一次紛争では独立派の精神的指導者だったが、後にロシア側につき、チェチェン共和国の初代大統領となった。2004年5月、式典中に暗殺された。

生涯
2004年没
死亡地
ロシア連邦(スタヴロポリ地方 / グロズヌイ)
出生地
カザフスタン(カラガンダ)
出典
世界地図
ロシア連邦(スタヴロポリ地方)

伝記

アフマト・アブドゥルハミドヴィッチ・カディロフは、1951年8月23日に生まれ、2004年5月9日に没したチェチェンの政治家で、イスラム教の高位聖職者でもあった。スターリン時代にチェチェン人は第二次世界大戦中に中央アジアへ強制移住させられており、彼も追放された一族の子として、カザフ共和国のカラガンダで生まれ育った。スターリンの死後に見直しが進み、1957年に一族はチェチェンのシャリン地区の村に帰郷した。

1968年に地元の高校を出たあと、集団農場で2年間働き、1971年にはロシア本土に移ってシベリアの開発に加わり、1980年まで同地に滞在した。戻ってから聖職者の道に進み、神学校を経てタシケントのイスラム大学で神学を学んだ。1986年から1988年までグデルメスで副イマームを務め、1989年には故郷の北カフカースに最初のイスラム大学を開いて、聖職者の育成を進めた。1990年にはヨルダンに向かい、イスラム法を研究したが、ソ連の崩壊でイスラム法の専門家として祖国に呼び戻された。1991年に独立派がチェチェン・イチケリア共和国の樹立を宣言すると、ジョハル・ドゥダエフ大統領を支持して、副ムフティーとして宗教面から政権を支えた。

1994年に第一次チェチェン紛争が始まると、自ら政府側の武装組織を率い、ロシア軍や連邦派と激しく戦ったとされる。「チェチェン人は100万人、ロシア人は1億5000万人だが、1人が150人を殺せば勝てる」と述べたと伝えられるが、本人は後にこれを否定した。1995年にドゥダエフから正式なムフティーに任命され、ロシアとの戦いを正当とするファトワーを出して、抗戦の意思を示した。停戦後に成立したマスハドフ政権でも引き続きムフティーとして宗教問題を統括した。

独立派の内部では、愛国心から志願したチェチェン人の兵と、イスラム義勇兵との対立が深まった。義勇兵の多くはワッハーブ派で、チェチェン人の多数が信仰するスーフィズムとは折り合いが悪く、カディロフはワッハーブ派を批判する立場をとった。マスハドフ大統領とともに強硬派の切り崩しを進めたが、大統領が強硬派を分断するため、ワッハーブ派を庇護する姿勢を示すと、これに激怒して批判し、ムフティーを解任されて政権から追われた。

1999年にバサエフらがダゲスタンへ侵攻し、第二次チェチェン紛争が始まると、プーチン首相は、マスハドフとバサエフのどちらとも敵対するカディロフを後ろ盾に戦争を進めることを望み、カディロフもロシア軍に協力した。ロシア軍が首都グロズヌイを占領した後の2000年6月、チェチェンは連邦内の自治共和国に戻され、カディロフが暫定政府の長に任命された。2003年10月、独立派が選挙を拒否する中で、80.84%の得票で大統領に当選し、19日に就任した。反対派の弾圧が行われ、選挙も公正とは言い難いが、紛争に疲れた国民の中には、ロシア主導の和平と復興を示す彼を支持する空気もあった。

2004年5月9日、グロズヌイの競技場で対独戦勝記念の式典に出席中、特別観覧席が爆弾で吹き飛ばされ、即死した。30人以上が死亡し、ロシア政府は独立派のテロと断定し、のちに強硬派指導者バサエフが犯行を認める声明を出した。5月10日、ロシア連邦英雄の称号が贈られた。次男のラムザン・カディロフはのちに大統領となった。

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