伝記
ミハイロ・フルシェフスキーは、1866年9月29日、ロシア帝国ルブリン県のヘウムに生まれたウクライナの歴史学者、政治家である。1917年から1918年にかけてウクライナ中央議会の議長を務め、事実上ウクライナ人民共和国の元首だった。父は学校の教師で、スラヴ研究にも携わり、教会スラヴ語の教科書の著者としても知られた。母はウクライナの聖職者の家柄の出身で、両親はウクライナの言語や音楽、伝統への深い愛着を子に植えつけた愛国者だったと、本人は回想している。父の転勤により、青年期をロシア領カフカス地方のスタヴロポリとウラジカフカスで過ごし、1880年に第一ティフリス中学校へ入って6年間ジョージアに滞在した。この頃にコストマーロフらの著作に熱中し、最初の短編小説も書いている。
1886年にウクライナへ戻り、キーウ大学の歴史・言語学部で東欧の中世史を学んだ。学生時代は、ウクライナの知識人による文化・啓蒙組織「フロマーダ」でも活動した。アントノーヴィチ教授に師事し、1890年にキーウ地方の歴史についての優秀な卒業論文で奨学金を得て、大学院に進んだ。1894年に修士論文を提出して修士号を得ると、アントノーヴィチの推薦で、オーストリア帝国のリヴィウ大学の歴史学教授に任じられた。1898年から1913年までリヴィウに滞在し、ウクライナ人の研究組織の会長として、研究会をヨーロッパの学士院のような施設に再編し、古文書館、図書館、博物館を創立した。リヴィウにはウクライナ歴史研究の学派を築き、大作『ウクライナ=ルーシの歴史』を書き継ぎ、リヴィウとキーウで刊行し続けた。
1905年のロシア革命以後はドニプロ・ウクライナへ移り、1907年にキーウでウクライナ研究会を設けて会長となった。政治活動も続け、『自由ウクライナ』などの論文で、ウクライナ人の独自性と自治権の必要性を主張した。1914年11月にキーウに戻ったが、ロシア警察に逮捕され、「オーストリア贔屓」の罪でシベリアへ流罪となった。ロシア学士院の要求でシムビルスクへ移され、その後カザニとモスクワに移った。1917年3月14日に再びキーウへ戻り、中央議会の議長に選ばれた。初めはロシアの連邦化とその中でのウクライナの自治を唱え、独立を求める団体を排除したが、10月のロシア革命でボリシェビキが攻め入ると立場を変え、自ら独立を主張した。1918年4月29日、同盟国の支援によるスコロパードシクィイのクーデターで、政界からの引退を余儀なくされた。
1919年3月にチェコスロバキアへ移住し、その後オーストリアのウィーンでウクライナ社会研究所を設置して、政治雑誌の主筆を務めた。1924年3月7日、ソ連の代表者との長い交渉の末にキーウへ戻り、ウクライナ学士院の院員に選ばれて、歴史・言語学部ウクライナ史課の課長となった。1929年にソ連学士院の院員となってモスクワへ引っ越したが、秘密警察に「ウクライナ民族主義者センター」の所長に仕立てられて逮捕された。学士院の取り計らいで間もなく解放されたものの、1931年にモスクワから追放され、同僚や弟子も逮捕されて、病気を患った。1934年11月、キスロヴォツクで治療していたところ急死し、遺体はキーウに葬られた。2千余りの研究書や論文を著し、主著は未完に終わった『ウクライナ=ルーシの歴史』で、ウクライナ研究に大きな影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- 金素月 (1934年没)
- オスカー・フォン・フーチェル (1934年没)
- エーリヒ・クラウゼナー (1934年没)
- ハンス・ハーン (1934年没)
- カール・フォン・リンデ (1934年没)
同じ地域に関係する人物
- ニコライ・ヤロシェンコ (1898年没)
- ワシーリー・サフォーノフ (1918年没)
- フリードリッヒ・ザンデル (1933年没)
- アフマド・カディロフ (2004年没)
- ミハイル・レールモントフ (1841年没)