HISTORICAL PERSON · 1996年没

ジョハル・ドゥダエフ

チェチェン共和国とチェチェン・イチケリア共和国の初代大統領。ソ連空軍の少将からチェチェン独立運動の最高指導者となった。

生涯
1996年没
死亡地
ロシア連邦(スタヴロポリ地方 / Gekhi-Chu)
出生地
ロシア連邦(Yalkhoroy)
出典
世界地図
ロシア連邦(スタヴロポリ地方)

伝記

ジョハル・ドゥダエフは、1944年2月15日、チェチェン・イングーシ自治共和国に生まれた軍人・政治家で、チェチェン共和国、および国際的に承認されなかった独立派のチェチェン・イチケリア共和国の初代大統領となった人物である。生まれて間もなく、一家はチェチェン人全体とともにソ連政府の命令でカザフスタンへ強制移住させられた。獣医の父ムーサと母ラビアトのもとに生まれた子の一人で、十数年を流刑の地で過ごし、一家が故郷に戻れたのは1957年のことであった。帰郷後は夜間の学校に通い、電気技師の資格を得ている。

1962年からソ連空軍に勤め、タンボフ高等軍事航空学校を卒業した。1968年にソ連共産党に入党し、公式には脱党していない。のちにガガーリン名称空軍アカデミーも卒業して、チェチェン人として初めて師団長となり、空軍少将まで昇進した。シベリアやウクライナの戦略爆撃部隊に勤務し、ポルタヴァやエストニアのタルトゥに置かれた核兵器を搭載する長距離爆撃機の師団を率いたとされる。赤旗勲章や赤星勲章などの勲章を受け、ソ連・アフガニスタン戦争に加わったとも伝えられるが、絨毯爆撃に関わったという非難について、本人は否定している。1987年にはタルトゥで第326重爆撃航空師団の指揮を執り、1990年3月までそこで核兵器を積んだ戦略爆撃機を率いたとされる。最後の任地はそのタルトゥで、基地の司令官としてエストニア語を学び、エストニア人の民族主義に寛大な態度をとった。エストニアのテレビ局と議会を封鎖せよという命令を拒否したため、エストニア人からは「反乱将軍」と呼ばれた。

1990年5月、タルトゥに来たチェチェン人の要請を受けて軍を退き、首都グロズヌイに戻った。そして、野党のチェチェン人民全民族会議の執行委員会を率い、チェチェンをソ連の中の独立した共和国にすることを求めた。1991年8月にソ連でクーデターが起きると、彼はいち早くボリス・エリツィンを支持した。このとき共産党員だった共和国の指導者ドク・ザヴガエフは、クーデターを公には非難しなかった。クーデターが失敗するとソ連は急速に崩壊へ向かい、ドゥダエフらはその機会をとらえて、ザヴガエフの政権に対抗した。支持者が広場を埋め、「国家親衛隊」が組織され、共和国最高会議は解散されて、ドゥダエフが権力を握った。

1990年11月にチェチェン・イングーシ自治共和国はソ連からの独立を宣言し、1991年にはチェチェン共和国とイングーシ共和国に分かれることが決まった。1991年10月、ドゥダエフは得票率85%で初代大統領に当選し、翌11月にソ連からの一方的な独立とチェチェン・イチケリア共和国の建国を宣言した。彼はグルジアやアルメニアの地震がロシアによる人工地震の攻撃だと主張したこともある。1994年12月、エリツィン大統領が独立を阻むため連邦軍を送り込み、第一次チェチェン紛争が始まった。ドゥダエフはロシア軍への抵抗を組織したが、1996年4月21日、ロシア軍のロケット弾攻撃を受けて死亡した。52歳であった。妻は芸術家で、2男1女がいた。首都グロズヌイは、1996年から2005年まで、彼にちなんでジョハル・ガラと改称された。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物