伝記
モーリス・ヒュー・フレデリック・ウィルキンスは、1916年12月15日、ニュージーランドのポンガロアに生まれたイギリスの生物物理学者である。父エドガーは医師で、姉のエイトネは翻訳家・詩人となった。一家はダブリンの出身で、父方の祖父は高校の校長、母方の祖父は警察の幹部だったという。彼が6歳のとき家族とイギリスのバーミンガムに移り、1929年から1935年までキング・エドワード校に学んだ。1935年にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入り、自然科学で物理学を専攻して、1938年に学士号を得た。
恩師のマーク・オリファントがバーミンガム大学の物理学の教授になり、ジョン・ランドールを陣営に迎えていたため、ウィルキンスはその大学でランドールの大学院生となった。燐光と電子捕獲に関する研究で、1940年に博士号を得ている。第二次世界大戦中は、バーミンガムでレーダーの画面を改良し、1944年から1945年にはカリフォルニア大学バークレー校のマンハッタン計画で、同位体の分離に携わった。戦後の1945年に、ランドールの下でセント・アンドルーズ大学の助講師になり、翌1946年にランドールがロンドンのキングス・カレッジの物理学教授となると、医学研究協議会の資金で設けられた生物物理学の研究室の副所長として、ともに移った。物理学と生物学の双方に通じた研究者を集め、多くの手法を並行して試して有望なものに絞る方針をとった。
1948年に核酸の研究を始め、1950年までに、DNAの繊維の質の高いX線回折像をいくつか撮った。この成果を1951年にナポリでの学会で発表すると、これを聞いたジェームズ・ワトソンが、フランシス・クリックとDNAの構造研究に進む契機になった。同じ1951年、ロザリンド・フランクリンがキングス・カレッジに加わり、同じDNAの研究を割り当てられたが、指揮系統が不明確だったため、二人の間には緊張が生じた。フランクリンと大学院生のレイモンド・ゴスリングは、B型DNAの高分解能の回折像を撮った。1953年の初めに、ランドールの指示でゴスリングがそれをウィルキンスに渡し、ウィルキンスはフランクリンの同意を得ずにワトソンに見せた。この行動は、倫理の面や歴史の面で大きな議論の的になっている。ワトソンとクリックは、この像とそれまでのデータをもとに、1953年3月に二重らせんの模型を組み立てた。ウィルキンスは並行して実験による確認を進め、同じ号の雑誌に確認の回折像を発表した。
1959年に王立協会のフェローに選ばれ、1962年には、ワトソン、クリックとともにノーベル生理学・医学賞を共同で受賞した。フランクリンは1958年に亡くなっており、ノーベル賞の対象にはなれなかったが、ウィルキンスは著作やインタビューで彼女の業績に言及した。のちにはRNAの構造や、放射線の生物への作用も研究した。2000年、キングス・カレッジは科学棟の一つを「フランクリン・ウィルキンス棟」と名づけた。ウィルキンスは、フランクリンの名を先にすることを求めたという。2004年10月5日、87歳で亡くなるまで、同大学の生物物理学の教授を務め、染色体の中でDNAがどのように存在するかを調べ続けた。
同じ年に亡くなった人物
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