伝記
トマス・ルイス・デ・ビクトリアは、黄金世紀スペインが生んだルネサンス音楽の最大の作曲家の一人である。16世紀スペインの作曲家では最も有名で、多くの人から、パレストリーナに次ぐポリフォニーの教会音楽の大家と見なされている。1548年ごろ、おそらくアビラで生まれた。洗礼記録が見つかっておらず、生地には議論があり、サンチドリアンを推す説もある。父フランシスコ・ルイス・デ・ビトリアはアビラの公証人で、母フランシスカ・スアレス・デ・ラ・コンチャは、セゴビアの裕福な羊毛商・金融業者の家の出であった。ビクトリアは9人きょうだいの7番目であった。父は賭け事に走りがちで家産は傾いたが、長兄エルナンが相続財産をきょうだいに分け、教育や持参金に充てたという。
1557年に父を亡くすと、司祭であった叔父フアン・ルイスが後見人となり、少年ビクトリアはアビラ大聖堂の聖歌隊員となって、大聖堂付属の学校で音楽の訓練を受けた。日本語の記事は、少年期にセゴビアでバルトロメー・デ・エスコベドに学んだらしいと述べる。1564年ごろにローマへ行ったとされるが、英語の記事は、フェリペ2世の奨学金を得た1565年のこととし、イエズス会がつくったドイツ学院の聖歌隊の歌手になったと述べる。1571年には同学院に教師として雇われ、初めて安定した収入を得た。日本語の記事は、この時にイエズス会の会士となったとする。パレストリーナに師事したようだが、状況証拠しか残っておらず、その様式に影響されているのは確かである。1573年からは、ドイツ学院とローマ神学校の二つの職を兼ね、楽長や単旋律聖歌の教師を務め、パレストリーナが神学校を去ると、その後任の楽長を引き継いだ。1575年には司祭に叙階された。
しかしながらイタリアに逗留し続けることなく、1586年にスペインへ帰り、マドリードのデスカルサス・レアレス女子修道会の一員となった皇太后マリアに仕えた。マリアは神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の妃で、スペイン王フェリペ2世の妹にあたる。ビクトリアは終生この修道会にとどまり、司祭、作曲家、合唱指揮者、オルガニストなど、さまざまな役割をこなした。演奏家より作曲家として生きることを好んだという。1611年8月27日に没した。
対抗宗教改革期のスペインで最も重要な作曲家であり、後期ルネサンスで最もすぐれた宗教音楽の作曲家の一人である。現存する作品は、パレストリーナらと異なり、ほぼすべてがラテン語詩による宗教的な多声の声楽曲である。ビクトリアの作品には、神秘的な烈しさと、直接に感情へ訴える特質が認められるといい、パレストリーナ作品が技術的には申し分ないが情緒的には超然としているのと対比される。様式面では、凝った対位法を避けて単純な旋律線とホモフォニーを好みつつ、リズムの変化や明暗の対比に富む。旋律や不協和音の扱いもパレストリーナより自由で、上行する長6度音程や、モテット『聖なるマリアよ、顧みたまえ』で嘆きを表す減4度音程まで用いた。宗教曲の一部には器楽も使い、ヴェネツィア楽派のように分割合唱のための作品も残した。最も美しく洗練された作品の一つが「死者のためのミサ曲」で、1586年以来の主人であった皇太后マリアの葬礼のために作曲された。ビクトリアの作品は20世紀に復活を遂げ、近年はたくさんの録音がつくられている。
同じ年に亡くなった人物
- カール9世 (スウェーデン王) (1611年没)
- ヤン・ピョトル・サピエハ (1611年没)
- マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (スペイン王妃) (1611年没)
- 真田昌幸 (1611年没)
- ヘンリー・ハドソン (1611年没)
同じ地域に関係する人物
- マリア・イサベル・デ・ブラガンサ (1818年没)
- イサベル・デ・ボルボン (1644年没)
- バルトロメ・デ・ラス・カサス (1566年没)
- エリザベート・ド・ヴァロワ (1568年没)
- ホルヘ・エドワーズ (2023年没)