伝記
バルトロメ・デ・ラス・カサスは、1484年にスペインのセビリアで生まれ、1566年に没したカトリックの司祭で、後にドミニコ会員となり、メキシコ・チアパス司教区の司教を務めた。スペインが国をあげて「新大陸」の植民と征服を進めていた時代に、先住民インディオへの不正と残虐行為を告発し、植民地支配の不当性を訴え続けた。主著に『インディアス史』があり、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』でも知られる。生前から激しい批判を受け、死後も評価は割れてきた。
父ペドロと母イサベルの最初の男の子で、三人の妹がいた。1493年にコロンブスがセビリアに戻ったのを目撃して強い印象を受け、父も兄弟とともにコロンブスの第二次航海に加わって「新大陸」へ渡った。1502年には自らもエスパニョーラ島へ渡り、1504年にはインディオの反乱を鎮める軍に加わっている。その後はインディオを奴隷として使いながら農場を経営した。1506年にセビリアへ戻って司祭職を志し、1507年にはコロンブスの息子ディエゴの陳情のためローマへ赴いて司祭に叙階され、1510年にインディアスへ戻って初ミサをささげた。
転機は1511年、ドミニコ会員モンテシーノスがスペイン人のインディオに対する不当な扱いを初めて非難したことに始まる。1512年、キューバ島征服軍に従軍司祭として加わり、拷問と虐殺を目の当たりにして激しい良心の呵責を覚えた。1514年8月15日、所有していたインディオ奴隷を解放してエンコミエンダを放棄し、聖母被昇天祭のミサでエンコミエンダ制の矛盾を糾弾した。これが第一の改心と呼ばれる。1515年にはモンテシーノスとともにスペインへ渡り、シスネロス枢機卿らに実情を訴えて、エンコミエンダの廃止と虐待の中止、平和的布教などを提案した。ただしこの頃は、インディオに代わる労働力として黒人奴隷の利用もやむなしと考えており、後にこれも不当だと考えるようになった。
その後、クマナー地方で平和的な植民を試みたが失敗し、植民者の反感が強まって命の危険を感じたため、ドミニコ会に入って修道院で研究に専念した。これが第二の改心である。1537年には教皇パウルス3世がインディオの奴隷化を禁じる勅令を出している。1540年にスペインへ戻って報告を行い、1542年にはインディアス新法が公布されて、インディオ保護とエンコミエンダ制の段階的廃止が定められたが、植民者の反発は強まった。チアパスの初代司教に任命されて新法の施行を求めたものの激しい抵抗を受け、エンコミエンダ制の廃止は先送りとなり、再びスペインへ向かった。
1550年からのバリャドリード論戦では、征服の正当性を唱える神学者セプルベダと自説を論じ合った。1551年以降はバリャドリードのドミニコ会神学院で執筆と啓蒙に専念し、チアパスの司教位も辞した。この時期にまとめたコロンブスの第一次航海日誌の要約は、原資料が失われた今、航海の様子を知る貴重な資料となっている。晩年の著作では、若い頃に黒人奴隷の導入をやむなしとしたことへの悔恨と、奴隷制度そのものの不当性を述べた。1561年にマドリードのアトチャ修道院へ移り、1566年にそこで波乱に満ちた生涯を終えた。遺言で著作をすべて神学院に寄贈し、時が来るまで公にしないよう言い残している。
死後、その著作は諸国でスペイン批判の道具として翻訳され、「黒い伝説」の一因となり、国内では祖国への裏切り者とみなされた。19世紀の中南米の独立運動では、インディオの保護者、思想的な先駆者とされた。評価は時代ごとに大きく揺れ動いてきた。
同じ年に亡くなった人物
- ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ (1566年没)
- ヨハネス・アグリコラ (1566年没)
- スレイマン1世 (1566年没)
- ルイーズ・ラベ (1566年没)
- ギヨーム・ロンドレ (1566年没)
同じ地域に関係する人物
- フェルナンド・ラサロ・カレテール (2004年没)
- エクトル・ヌニェス (2011年没)
- リリ・デ・アルバレス (1998年没)
- ホリア・シマ (1993年没)
- フアン・デ・オニャーテ (1626年没)