HISTORICAL PERSON · 1611年没

カール9世 (スウェーデン王)

ヴァーサ朝のスウェーデン王。カトリックに改宗したシギスムンドに反発する勢力の指導者となり、摂政を経て1604年に即位した。

生涯
1611年没
死亡地
スウェーデン王国(セーデルマンランド県 / ニュヒェーピング城)
出生地
スウェーデン王国(Tre Kronor Castle)
出典
世界地図
スウェーデン王国(セーデルマンランド県)

伝記

カール9世は、1550年10月4日、スウェーデンのストックホルムで、国王グスタフ1世と2度目の妃マルガレータの末子として生まれた。幼いころは家庭教師について学び、1560年に父が没すると、セーデルマンランドやネーリケ、ヴェルムランドなどを含む公領を受けた。15歳のとき、北方七年戦争に加わり、1565年のヴァルベリ攻略では砲兵を指揮したという。同母兄ヨハンによる異母兄エリク14世の廃位に協力し、1568年の反乱では実際の指導者であったという。しかしヨハン3世との関係は多かれ少なかれ緊張をはらみ、公としての自立をめぐっては、王の制限の試みに強く抵抗した。

ヨハン3世は、ポーランドとの同盟を図ってヤギェウォ家と婚姻を結び、その子シギスムンドは、1587年にポーランド王ジグムント3世として即位した。しかしシギスムンドはカトリックに改宗しており、プロテスタント国家のスウェーデンとは相容れなかった。プロテスタントであったカールは、反カトリック勢力の希望の星とされ、筋金入りのルター派として、宗教問題では一歩も譲らなかった。1592年にヨハン3世が没すると、シギスムンドがスウェーデン王位を継承したが、ポーランドを主軸とするカトリックの王であったため、叔父のカールが執政となり、事実上の統治者となってカトリック教会との絶縁を宣言した。

シギスムンドは一旦これを認めたものの、両者の対立は避けられず、1598年にスウェーデンに上陸してカールの統治権を剥奪した。カールは反乱軍を組織し、ストックホルム南方のリンシェーピングで戦ってシギスムンドを破り、王位を剥奪して国外に追放した。翌1599年に摂政に任命され、事実上の君主となった。1600年には、シギスムンドに協力した勢力を粛清して、カトリック勢力を一掃した(リンシェーピングの血浴)。スウェーデンはルター派を国教と定め、ヴァーサ朝の統治権が確立された。

1604年、シギスムンドの異母弟であるフィンランド公ヨハンと協定を結んで王位継承を辞退させたうえで、兄ヨハン3世と同じく、王位を簒奪する形で即位した。カールが9世を名乗るのは、スウェーデンの伝承であるゴート起源説を正当化するためで、8世以前に明確なスウェーデン国王カールがいたわけではない。しかし治世は思うにまかせなかった。国王自身が病に冒され、ロシア、ポーランド、デンマークとも対立が深まった。スウェーデンを大国化させようと腐心したが、1605年のリヴォニア侵攻ではポーランドに惨敗し、財政は厳しく、軍事力も弱体化していたという。

家庭では、1579年にプファルツ選帝侯の娘アンナ・マリアと結婚して6人の子を儲け、1592年にホルシュタイン=ゴットルプ公女クリスティーナと再婚して4人の子を儲けた。その1人が、のちのグスタフ2世アドルフである。幼いグスタフ・アドルフに強い期待を抱き、帝王教育を施して、10歳にして国政に参画させた。晩年にはロシアの内戦(大動乱)にスウェーデンを参戦させる中で、1611年10月30日に亡くなった。すでにスウェーデン軍を率いていたグスタフ・アドルフが17歳で王位を継いだ。

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