伝記
エウセビウスは、第31代のローマ教皇である。在位は4月18日から8月17日までの短い期間で、年は308年から310年のいずれかとされ、310年とする説もあるが、教皇庁の公式名簿は309年に置いている。年については意見が一致しておらず、日数についても定まっていない。『リベリウス目録』は、4月18日から8月17日まで、4か月16日と記す。ただし、この日数は正確でなく、実際の終わりはもっと後だったのではないかという指摘もある。
教皇になる前の経歴は伝わらず、生年も分かっていない。ほとんど唯一の手がかりは『教皇の書』で、それによればギリシア人で、司教になる前は医者を務めていたという。別の記述には、医者の息子だったというものもある。名前もギリシア語に由来し、敬虔を意味する女神の名につながるとされる。
彼が教皇となった当時は、皇帝ディオクレティアヌスによる迫害の終わりに近く、キリスト教徒に寛容を認める勅令が出される前の最後の時期であった。ローマを支配していたマクセンティウスは、306年に皇帝を称した後、迫害の終わりを宣言し、キリスト教徒へ早い寛容を示したが、迫害中に没収した財産は返さなかった。街は比較的静かであった。しかし教会そのものは、迫害の中で皇帝の命令に従って信仰を捨てた人々が増えたことで、新たな問題を抱えていた。復帰を望む背教者の一派と、前任者のマルケルス1世が率いた厳格派が対立したのである。もっとも、マルケルスは厳格派に属しながら、復帰を認めつつ罪の重さに見合う厳しい償いを求める、中間的な立場だったらしい。議論は街頭での騒ぎや争いに発展し、マルケルスは追放されて亡くなった。エウセビウスは、3か月の空位を経て選ばれたと見られている。
エウセビウスの在位中にも、背教者を再び受け入れるか否かという問題が続いていた。ローマで起こった大きな騒動のため、マクセンティウスはエウセビウスを追放した。前任のマルケルス1世と同様、背教者への厳しい態度から困難な状況に陥ったとされる。追放先はシチリア島で、彼はそこで間もなく亡くなった。死んだ年は310年とも309年ともいわれ、8月17日に没したとされる。遺体はカリクストゥスの墓地に葬られた。のちに教皇ダマスス1世が、この墓に詩をあしらった墓碑を贈った。この碑文は、迫害の終わりと平和の到来のあとに、教会内で大きな不和が生じたことを伝える手がかりとされる。
殉教者として聖人に数えられ、どのように死んだかは分からないものの、追放されたことが功績と見なされている。記念日は9月26日とされてきたが、現在は8月17日に祝われるともいう。当時の教皇は、なお一つの都市の司教に等しい立場であり、ローマ司教が教会の最高の長と見なされるのは、何世紀も後のことである。
同じ年に亡くなった人物
- マクシミアヌス (310年没)
- 竺法護 (310年)
- 劉淵 (310年没)
- パタラのメトディオス (310年代没)
同じ地域に関係する人物
- アイスキュロス (紀元前456年没)
- マイク・リンチ (2024年没)
- マルケリヌス (468年没)
- クレアンデル (ゲラの僭主) (紀元前498年没)
- カロジェロ・ヴィッツィーニ (1954年没)