伝記
クレアンデルは、シケリア(シチリア)島にあったギリシア人の植民市ゲラの僭主である。ゲラの最初の僭主とされ、紀元前498年に暗殺された。父はパンタレスで、弟にヒッポクラテスがいた人物である。ヒッポクラテスには、エウクレイデスとクレアンデルという2人の子があったという。
イタリア語の記述によれば、父パンタレスはメネクラテスの子で、貴族の出であった。オリュンピアで見つかった青銅の板が、その家柄を裏づけるとされる。パンタレスは前508年の第68回オリュンピア競技に出場し、四頭立て戦車競走で勝利した。これはシケリアのギリシア人貴族として最初に知られる優勝であり、ゲラの人々が馬の飼育と深く結びついていたことを示すという。のちのヒッポクラテスの時代の貨幣には、裸の騎手が馬にまたがる図柄が刻まれている。クレアンデルはこの貴族の家に生まれ、前6世紀に生きた人物とされる。
ゲラは、クレアンデルより前には寡頭制で治められ、長く続いたドーリス系の政権の下にあったとされる。クレアンデルはその政権を倒して権力を握った。政権を握った年は前505年とも前504年ともいわれ、7年間統治した。この7年という数字は、ヘロドトスの記述とアリストテレスの記述に基づくもので、クレアンデル、ヒッポクラテス、ゲロンがそれぞれ7年ずつ統治したというところから導かれたものである。ただ、あまりに整いすぎて作為的に見えるという指摘もあり、在位を前500年から前494年とする試みもあったが、うまくいかなかったとされる。クレアンデルがオリュンピアで見つかった碑文の人物にあたるとする見方もある。アリストテレスは『政治学』で、パナイティオスやアナクシラオスと並べてその台頭に触れているが、権力を握った経緯は、史料が乏しいために今日でもはっきりしない。ゲラで内乱が起き、貴族の支配に苦しんだ住民が国外へ出たのち、神官テリネスの導きで戻ってきた出来事を利用した可能性が指摘されている。ただし、この内乱が本当にあったのか、後にゲロンの行いを正当化するために作られた話なのかも分かっていない。一説では、民衆派の指導者から僭主になったともいう。
シケリアの先住民であるシケル人との間には、問題を抱えていたとされる。この問題を引き起こしたのはクレアンデル自身だと考えられている。ゲラで最初に城壁を築いたのは、シケル人との紛争に備えたクレアンデルではないかといわれ、アクロポリスに築かれた最初の城壁がそれにあたる可能性がある。また、ゲラの近代化を始めた人物ともされる。
前498年、あるいは前497年、クレアンデルはゲラ市民のサビュロスによって殺害された。サビュロスは民主政の導入を望んでいたとされる。一方で、クレアンデルが倒した貴族の党派による陰謀の結果だったのではないかという見方もある。しかし、サビュロスの望みはかなわず、権力は弟のヒッポクラテスに移った。ヒッポクラテスもまた7年間統治し、シケル人に対する遠征の途中、ヒュブラで没した。その後、神官テリネスの子孫で、戦士として名を上げ、騎兵隊の指揮をとっていたゲロンが、ヒッポクラテスの子らを守ると称して権力を握り、僭主となった。兄弟の統治は、のちのディノメネス家やエンメニス家の僭主政へ至る道筋をつくったともいわれる。ゲロンはのちにシュラクサイを手に入れ、カルタゴとの戦いでも中心的な将軍となった。
同じ年に亡くなった人物
- シュロスのペレキュデース (紀元前 498年)
- アミュンタス1世 (紀元前498年没)
- ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌス (紀元前498年没)
同じ地域に関係する人物
- マルケリヌス (468年没)
- アイスキュロス (紀元前456年没)
- カロジェロ・ヴィッツィーニ (1954年没)
- エウセビウス (ローマ教皇) (310年没)
- プリュニコス (紀元前500)