HISTORICAL PERSON · 1598年没

フェリペ2世 (スペイン王)

ハプスブルク家のスペイン王。1580年からポルトガル王も兼ね、「太陽の沈まない国」と形容された帝国の最盛期に君臨した。

生涯
1598年没
死亡地
スペイン王国(マドリード州 / エル・エスコリアル修道院)
出生地
スペイン王国(Palacio de Pimentel)
出典
世界地図
スペイン王国(マドリード州)

伝記

フェリペ2世は1527年5月21日、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)と、ポルトガル国王マヌエル1世の娘イザベルの子として生まれた。父は当時のヨーロッパで最大の勢力を持っていた。1556年1月16日、父の退位によりオーストリアを除く領土を受け継ぎ、28歳でスペイン国王として即位した。オーストリア大公でありローマ王でもあった叔父フェルディナントが皇帝位を継承し、こうしてハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分かれた。

即位と同時に総額3,600万ドゥカートの借金も受け継ぎ、翌1557年には最初の破産宣告(バンカロータ)をせざるを得なかった。在位中の破産宣告は計4回に及んだ。それでも1559年のカトー・カンブレジ条約で、フランスにイタリアへの要求を放棄させた。統治にはアラゴン王国の副王制を用い、各地に副王を置いて中央集権体制を整えた。1561年には宮廷をバリャドリッドからマドリードへ移し、スペインの「首都」が初めて確定した。のちにマドリード郊外にエル・エスコリアル修道院を築き(1563年着工、1584年完成)、その宮殿の中から広大な領土へ命令を発した。ヨーロッパ中を巡回して統治した前王と違い、宮殿に籠って政務に専念したため、「書類王」とも呼ばれた。

熱心なカトリック教徒とされ、「異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい」と述べたという。カトリックによる国家統合を理想とし、1559年には禁書目録が公布され、フランスのユグノー戦争ではカトリック同盟を支援した。こうした不寛容な政策に対して、1568年にはネーデルラントの反乱と、アルプハラース山地でのモリスコの反乱が起こった。それでも1571年のレパントの海戦では、異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアを連合艦隊の総司令官に任じてオスマン帝国海軍に勝利した。1580年にはポルトガル王国を併合してポルトガル国王も兼ね、スペイン最大の版図を得た。「太陽の沈まぬ帝国」と形容された。1584年には日本から来た天正遣欧少年使節を歓待し、普段の厳かで抑制的な態度とは違う愛想の良い振る舞いで周囲を驚かせたという。

しかし1581年にはネーデルラント北部諸州が統治権を否認する布告を出した。1588年、北部諸州を支援するイングランドを叩くために無敵艦隊を派遣したが、アルマダの海戦で敗北した。この頃からスペインに衰退の兆候が現れ、1590年にはミリョネス新税を導入し、1596年には大規模なバンカロータを行わざるを得なかった。同年から約3年にわたってペストも流行した。1598年9月13日に没し、その死の床につく頃には、「スペインの世紀」は終わろうとしていた。

結婚は4度に及んだ。1543年にポルトガル王女マリア・マヌエラと結婚して長男ドン・カルロスをもうけたが、妻は1545年に世を去った。1554年にはイングランド女王メアリー1世と結婚したが、11歳年上の妻とは性格が合わず、1556年に即位のため帰国して別居状態となり、メアリーは子のないまま1558年に死去した。1559年にはフランス王女エリザベート・ド・ヴァロワと結婚して2女をもうけたが、彼女は1568年に死去し、その数か月前にドン・カルロスも世を去った。同年にはオーストリア・ハプスブルク家のアナ・デ・アウストリアと結婚し、4男1女をもうけたが、のちのフェリペ3世以外の子はみな夭折した。なお、フィリピンの名は、1542年に探検家ビリャロボスが諸島をフェリピナスと命名したことに始まり、当時王太子だったフェリペの名に由来する。

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